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穂積にはわかる。事件が起きてしまえば、時間はいくらあっても足りなくて、聞き込みに裏取り、取り調べと作業に追われ、私用のメールや電話を後回しにせざるを得ないことは、穂積もしばしば経験している。
しかし、我が子が初めて寝返りを打ったという、人生に幾度もない幸福な報せを、見逃してしまった井上の辛さと――最愛の夫と共有できなかった妻の悲しみは、一生結婚と縁のない穂積にも、切ないものだった。
「今週末、嫁の実家に話し合いにいってきます。戻ってきてくれるよう、頼むつもりです」
「そう、ですか……。奥さん、わかってくれるといいですね。お子さんたちだって……お父さんと離れて寂しいでしょうし」
そう伝えた言葉は本心だったが、無意味だとも感じた。
妻は、とっくにわかっているだろう。夫が遊び歩いて家に帰ってこないのではなく、誰かのために、被害者や社会のために身を粉にして働いているため、家に帰れないのだと。
だから妻は辛いのだ。人のために働く立派な夫を責めてしまう自分が許せなくて、妻は家を出た。そして、夫――井上から逃げ出した。
そう感じたが、それでも穂積は切に願った。井上と妻がもう一度気持ちを通わせられるよう、話し合いが上手くいくよう、心から祈った。まだ小さい子供たちのためにも。
井上が、切なげに顔を歪める。
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