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嬉しいはずの、井上からの口説き文句が、切なくて胸が張り裂けそうだった。
鈍いのは、井上だけじゃない。穂積もまた、鈍かった。いや、鈍いように装っていた。
穂積は男が好きだから、井上がアリなんじゃない。あの夜、穂積は井上に――。
「一度だけ、いいですか?」
井上が、耳に優しい低い声で訊く。
「……なんですか?」
「一回だけ、小野寺みたいに、呼ばせてください。……香」
名前を呼ばれ――心と体が、温かな幸福に満たされる。
井上は穂積を抱き寄せ、顎にそっと指を添えて上向かせると――優しく口づけた。
短いキスだった。唇が離れると、二人はしばらく無言で見つめ合った。
きっと二人とも、どちらかが強引にまた口づけるのを待っていた。
しかし二人とも、そうはできなかった。
結ばれない運命だったのだろうと――諦めていた。
井上が、穂積から静かに離れる。穂積は引き止めそうになる手を、もう一方の手で掴んで堪えた。
「俺……あなたが好きでした。あの夜から今日までずっと。でも……諦めます。人生二度目の恋だったけど、諦めます。何度も失礼なことして……迷惑かけて、すいませんでした」
井上は深々と頭を下げた。穂積は、なにも言えずにその姿を見下ろしていた。
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