3月1日 朝 プロローグ

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3月1日 朝 プロローグ

程よく冷めた弁当をバンダナで包んでトランクの持ち手にバンドで固定すると、硯 雨理(すずり あさむ)は靴に足を入れた。 トランクの中には、心理学と社会学の資料書籍とテキストが数冊。 それに仕事用の特殊端末専用機に、業務ファイル、ノートパソコンが入っている。 今日の業務内容からすれば、鳳凰大学で四時半から始まる授業にはおそらく間に合わないだろう。 それでもテキストを置いてゆく気にはならなかった。  いつものように右左と順にジャケットの胸ポケットに触れ、薬と携帯、名刺入れとマシンの存在を確かめてから家を出た。 今日は、関東徳王会病院で起きた二件の不審死の調査が入っていた。 硯が勤める外資系生命保険会社「イオニアル」の生命保険加入者は、死亡した患者が一人。 それに賠償責任保険に病院関係者が一人、加入している。 しかも二件のうちの一件は、医療過誤や病死ではなく殺人の可能性が高いようだ。 亡くなった保険加入者の契約情報と病院資料には昨夜のうちに目を通してある。 硯はトランクのサイドポケットから「底本堤中納言物語」を出すと、歩きながら読み始めた。 朝食からずっとつけっぱなしのアイポッドのイヤホンからは、イタリアの友人が送ってくれた「アリストテレス著作集」の朗読が流れている。 思ったとおり、ラテン語の荘厳なリズムで語られる真理と、ぶっきらぼうな味わいの虫愛ずる姫君のストーリーは、波長がうまく合って気持ちがいいと、硯は会心の笑みをこぼした。 駅まで徒歩で二十分。からからと軽やかな音でトランクの車輪が回る。 今日は、どこでアンパンと牛乳を買おうー。 病院周辺のパン屋やコンビニ、土産物屋の情報と地図は、頭の中に入っている。 アンパンと牛乳、こちらも最高のマリアージュに出会えるといいと、あふれる希望が我慢できなくて困る。 今日のように保険金と二体の遺体に導かれたとしても、その町でアンパンと牛乳のうまい食い合わせさえ出来れば、結果オーライが硯の主義だ。
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