一夜

3/4
前へ
/4ページ
次へ
夜が赤い。 駅から家に帰る道すがら、彼の目は月にひきつけられる。月は赤みを帯びていて、その光が周りの雲に溶け出し、夜空全体を薄赤く染めている。悪意を秘めた目のように、月は地上を見下ろし、見つめているうちに、彼の心を不安と妙な高揚が占め、そのせいで数秒、ポケットの中で携帯が震えている事に気がつかなかった。彼はやがてそれに気付くとポケットから取り出して耳に当てる。スピーカーの向こうから聞き覚えのある男の声。 悪い、こんな時間に。 どうした? 彼は男の声に応える。彼の声は疲れている。 俺、死のうと思うんだ。 男は言う。そして続ける。 もう俺の中には絶望しか残っていない。生きている理由も、価値も、気力もないんだ。お前もそう思うだろう? 俺なんて死んだほうがいいんだよ。 男の言葉に、彼は沈黙する。その間も電話越しに、男の泣き言が聞こえる。 お前に言ってた医療機器の営業の仕事も辞めちまった。それに、精神科に行ったら双極性障害だって言われたよ。躁鬱、ストレスのせいだ。頭が重い。こんな頭じゃ何も出来ない。貯金もない、唯一救いだった玲にも見捨てられた。駄目だ。もう俺は駄目だ。 僕もさっき、女と別れたよ。 彼は声色を変えず男にそう言う。 そうか、それは大変だったな。そうか、とにかく、もう駄目だ、俺は。だから、俺は死ぬ事に決めた。もうすぐ飛び降りる。ありがとな今まで。それだけ言っておきたくて。 ああ、ありがとう。またね。 男が驚いたように何か言いかけたところで彼は電話を切る。ポケットの中に携帯を仕舞い、ため息を吐く。コンビニで酒と弁当を買い、家に帰りそれを食べる。何度かその間にも携帯が鳴る。彼は出ない。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加