逃亡

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 自分の身はどうなってもいい。ただ、トゥヒムの命と心の安寧だけを、リュドラーは願っている。  リュドラーはふと、街はずれに広大な土地を持っているサヒサという名の商人を思い出した。王城に珍しい異国の品を献上しにきたことがある。彼は市民の動きが怪しくなりはじめたころ、そっとリュドラーに耳打ちしたのだ。なにか困りごとがあれば、商人は利益を優先するものです、と。  手広く商売をしている裕福な商人は、護衛を必要とする。騎士の中でも誉れ高い自分の腕は、トゥヒムを擁護するに足る利益をサヒサに与えられるとリュドラーは踏んだ。  人目を忍び、神経を研ぎ澄ませて、リュドラーはトゥヒムを連れてサヒサ邸へと向かった。  人々の喧騒が遠くなり、やがて聞こえなくなるころに、貴族の別荘と見まがうほどの立派な建物が現れた。庭に足を踏み入れて木々の間を隠れながら進み、裏庭にあるであろう馬小屋を目指す。  表で訪いを告げて来意を説明するのは愚策だと、リュドラーは考えている。市民暴動を静観しているように見せかけて、先導している可能性もあるからだ。  王家が滅びれば、商人は上がりの一部を納めなくてもよくなる。民による民のための政治がはじまるとは言っても、それを実行するのは裕福な商人連中だろうことは想像に難くない。サヒサが裏で糸を引いていないとも限らないのだ。  そこまで考えていながら、サヒサ邸の馬小屋を今宵の隠れ家に選んだのは、助けを乞える可能性と、危うくなった場合の逃げ足として馬を拝借するという計算があるからだった。彼は良馬を有している。  トゥヒムはリュドラーの足手まといにならぬよう、懸命に足を動かしていたが、昨夜の夕食を最後に飲まず食わずで歩き回り、神経を張り詰めっぱなしでいたので、体力が落ちてきていた。抱えられつつなんとか歩いてはいるものの、靴を履く余裕すらなく王城から脱げ出したので、足裏は傷つき血が滲んでいた。  もつれそうになる足を叱咤しながら進んでいたトゥヒムの緊張は、リュドラーの「あれが馬小屋です」という声に緩んだ。
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