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「ね、百夜通ったら、オレのになってくれる?」
背後から聞こえた言葉を理解出来ず、僕は寄りかかっていたベッドから背を浮かせて振り返った。そこには僕のベッドにうつ伏せに寝そべって僕の本を読む友人がいる。
レポートを書くのに分かりやすい資料をくれとせがまれて、大学の友人である小野を一人暮らしのアパートへ招いたのは一時間程前だ。
梅雨らしからぬ晴れ間が続いている、気の早い学生たちが期末レポートや試験の〆切、日程を確認したり、早くも追われたりし始める頃。部屋には扇風機の音と、時折本のページをめくる音が響いている。初夏の陽気だが、風が通る部屋だから不快な程暑くはない土曜日の昼下がり。本を日焼けから守る為の遮光カーテンがふわりと揺れて、コップの中で小さくなった氷がカランと音をたてた。
目線は文字から離れないから独り言かと思ったが、不意に視線を上げた小野と目が合う。いつも穏やかな印象を受ける彼の目が、知らない色をしている。光の加減で色を変える少し薄い色の瞳を見慣れたと思っていたのに、こんな色もするのか。
言ってることもわからないが、その意図もまた理解しかねて問い返す。
「……なんだって?」
「コレ。百夜通い。小野小町のトコに百日通ったムネサダみたいに、草町のトコに百日通えたら俺の気持ちを受け入れてください」
「えーと……?」
読んでいたらしいページを開いて示される。何度読んだか知れない、百人一首に選ばれた歌人たちの、平安の世の恋を描いた物語。高校生の頃に見つけて、恋を含め、当時の人の生き様を描く内容に惹かれて、折りをみて読み返している一冊である。
もう少し本を読んだ方が良い語彙力であるとは思っていたが、小野と話していて日本語が通じないと思ったのは初めてだ。
「……小野、ちゃんとそれ最後まで読んだか?レポート書くにはもう少し難しいものも読まないといけないけど、興味を持つとっかかりになればとわかり易いものを選んで貸したつもりなんだが」
「あ、そうなの?だからかー、わかりやすかった。昔の人の恋って難しいな」
感想が小学生みたいだ。彼はちゃんとレポートを仕上げられるんだろうか。
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