灼熱、帰路。(一)

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 だがその願いも虚しく、令嬢は一歩、二歩とこちらに寄ってきた。腕を掴んだ時よりも距離が近い。俺よりも十センチは低い背丈の彼女だが、透き通るような瞳が異質な威圧感を生み出している。その眼でじっと見つめられ、金縛りになったように動けなくなった。あくまでそんな気がしているだけに過ぎないが、それでもこの拘束力は本物だ。 「……………………」  口が動いた。だが寸分たりとも聞き取れない。もしこの瞬間すべての音が消えて彼女の声だけが残ったとしても、それが俺の耳に届く可能性はよくて半々なんじゃないか。というか、まさか本当に口がきけない人だったり……?  思えば彼女を見かけた三度とも、声を発しているのを確認していない。どんな罵詈雑言を受けても反応がなかったのも、声だけでなく耳も聞こえない体質だったからだとしたら。嫌な汗が額を濡らす。俺が思っていた以上に、このいじめは陰湿なのか。 「君、名前はなんて言うんだ」  耐え切れず訊ねてしまう。下手すればまた警戒されかねない物言いだったが、妙な緊迫感に駆られるよりはずっとましだ。 「……………………」  また口が動いた。聞こえてはいるらしいが、変わらず声は極小。何か声を出せない理由があるのかもしれない。俺は自転車の前籠に突っ込んであった学生鞄からメモ帳とシャーペンを取り出し、彼女に渡した。俺の意図を察した彼女は躊躇いなくコンクリの上に再び膝をつくと、女の子らしい丸みのついた文字が書かれていった。 『わたしは仲河芽生(なかがわ めい)といいます』  続けて、こう書いた。 『助けてくれてありがとう』
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