4 高野七生

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4 高野七生

 それまで見過ごしてきた誤字や脱字のように、論理の破綻もまたある日突然いきなり見つかる。  本当に。ある日突然。  俺には日記をつける習慣はなかったが、辻島のマンションに住みこむようになってから、覚え書きのようなものを気が向いたときに書くようになっていた。  書きこむのはノートではなく、自分のノートパソコンだ。ここでとりあえず一ヶ月間住みこむことになったとき、自分のアパートからこれと着替えだけリュックサックに詰めて持ってきた。  結局、フライパンで炒め直したチャーハンを辻島に食べさせた後(俺が作ったものに関しては、たとえどんなにまずくても、辻島は文句は書かない)、いつものように自室に戻った俺は、いつものようにそのパソコンを立ち上げ、覚え書き用のテキストファイルを開いた。  普段は書くだけ書いてすぐに閉じてしまうのだが――いくら覚え書きを書いても公募には出せない――今日はたまたまこれまでのことを思い出したせいもあり、頭からそれを読み返してみた。  何しろ覚え書きだから、小説以上に誤字脱字誤変換誤用は当たり前、文章になっていない文章も数多い。だが、日付や内容自体は正しいはずだ。  ――おかしい。  はっきりそう思ったのは、高野さんに〝設定屋〟と評されたくだりを読んだときだった。  俺の記憶の中では〝設定屋〟の後に〝辻褄師〟の話をされたことになっている。  しかし、この覚え書きの中では順番が逆だ。〝辻褄師〟の後に〝設定屋〟。おまけに、つくづく自分の小説が嫌になり、全部抹消しようかと思ったが、やはり思いきれなかったとある。  最初から整理してみよう。  大学卒業後、俺は実家には戻らず、約三年間フリーターをしていた。覚え書きではこの時期のことにはほとんど触れられていないが、文字に起こすのも嫌だったのだろう。自分のことだから嫌になるほどよくわかる。  そして、今から七ヶ月前の三月某日、俺は例のバイト先を辞めた(実質、解雇のようなものだったが)。それから数日後、あの奇妙な求人広告を見た。  すぐに募集元の出版社に電話した俺は、その翌日にはファミレスで高野さんに会い、そこからこのマンションに徒歩で移動してあの辻島に会った。  とりあえず一ヶ月間だけここに住みこんでみて、これならやっていけそうだと思った俺は、今まで住んでいたアパートの管理会社に契約解除を申し出た。完全に引き払うことができたのはそのさらに一ヶ月後だ。もちろん、その前に引越は済ませた。自転車を含む不要品の処分は高野さんに頼み(手数料は辻島から徴収すると言っていた。本当に徴収したかどうかは定かではない)、本や衣類など俺にとって本当に必要なものだけ、レンタカーの白い軽トラックの荷台に積みこんだ。  これの運転も高野さんがした。辻島は免許を持っておらず――確かにあれではどんな免許も取得できなそうだ――俺はペーパードライバーだった。今では身分証明の役にしか立っていない。  親には〝正式採用〟になってから連絡した――はずだ。本当のことは言いにくかったから、出版社で正社員として働くことになった、そこには社宅があるからアパートを引き払って引っ越した、と嘘をついた――はずだ。親はたぶん、正社員になれたならいいと単純に喜んだ――はずだ。  それが約五ヶ月前、五月末のことだった――はずだ。  はずだ。はずだ。はずだ。  親に関することとなると、俺の記憶はとたんにあやふやになる。覚え書きにもまったく書かれていなかった。  そういえば、あれから親には会うどころか、一度も電話をかけていない気がする。向こうからかかってきたことも一回もない。  これから忙しくなるから盆にも帰れないかもしれないと言ったような覚えはある。だが、あれほど過干渉だった親が、電話の一本もかけてこないということがありうるだろうか。  強い不安に駆られた俺は、どんなに生活が困窮しても解約だけはしなかったスマホ――住所変更はしたが――を手に取った。  ここに来てから、これを電話機として使用する機会はほとんどなかった。ネット閲覧用のミニパソコン。そんな扱いばかりしてきた。  電源を入れ、パスコードを入力する。迷ったが、とりあえず「電話」のアイコンを押してみた。直近でかけたのは確か――  しかし、すぐに現れた「よく使う項目」には、誰の名前も表示されてはいなかった。  頭からすっと血の気が引いた。  少なくとも、これで俺は高野さんと何度も連絡を取り合ったはずだ。高野さんの出版社にもこれでかけた。あのときの俺にこれ以外の連絡手段はなかった。  ――これはたぶん、壊れてるんだ。  さんざんスマホをいじりまわしてから、俺はそう結論づけた。  ――原因はわからないがデータが飛んだ。実家の電話番号なら暗記してる。それを直接入力すれば……  俺はほっと溜め息をついて、今度は「キーパッド」画面を出した。その上に右の人差指をかざす。だが、その指を動かすことはどうしてもできなかった。  ――番号がわからない。  たった数瞬前まで空で言えると思っていた実家の電話番号がまったく頭に浮かばない。  最初は間違いなく0だろう。でも、その次は? その次の数字は何だった?  番号案内で訊けばいいんじゃないかと思いつくまで、かなりの時間がかかった。しかし、それは次の混乱を招くきっかけにしかならなかった。  俺は実家の住所も、両親の名前すらも、完全に忘れてしまっていた。  それからはもう半狂乱だった。パソコンの中はもちろん、部屋中を引っかき回して、何か手がかりになるものを探し求めた。  そうしてみて、初めてわかった。  今の俺には、手がかりになるものが何一つない。  あると思っていた運転免許証も、もらったはずの労働契約書も、引き払ったアパート関係の書類も。  あの求人広告が載っていた無料情報誌も、大学時代のテキストやノート、卒業アルバムも。  まるで最初からなかったかのように、どこにもない。 「辻島!」  俺は絶叫しながら部屋を飛び出し、廊下を走ってリビングの扉を開けた。  辻島はいつものようにソファでテレビを見ていた。俺を振り返り、大きく目を見張る。  薄いその唇が「どうした?」と動いたような気がしたが、俺はかまわず自分の言いたいことを言った。 「辻島! 助けてくれ! 俺の頭がおかしい!」  俺の記憶は当てにならない。そうとわかったとき、頼れるのはもうこの辻島北斗しかいなかった。  辻島の背後にある白いレースのカーテンはすっかり朱色に染まっていた。俺はあの部屋で見つかるはずのないものをいったい何時間探しつづけていたのだろう。辻島はリモコンでテレビを消すと、俺に向かって大股に歩いてきた。それだけで少し落ち着く。 「辻島、俺は……」  そう言いかけたとき、聞き慣れた呼び鈴が鳴った。 『ちょっと早いけど、こんばんは。原稿取りに来ちゃったよ』  名乗られなくてもすぐにわかった。高野さんだ。あわててリビングの掛時計に目をやれば、針は五時少し前を示していた。 『……あれ? いないの?』  いつもだったら、俺がインターホンで応答してドアを開けている。俺の頭も大事だが、金がなくては治療もできない。そう思って玄関に行こうとすると、辻島が俺の左腕をつかんで引き戻した。 「ドアは開いてる」  辻島が玄関ドアに向かって言った。と、ロックが勝手にはずれ、ドアが薄く開いた。 「おや、珍しい」  ビジネスバッグとケーキの箱――たぶん中身は俺の好きなレアチーズケーキ――で両手がふさがっている高野さんは、ドアの隙間に左の爪先を挟みこむと、滑るように中へと進入してきた。 「辻島くんが言霊でドアを開けてくれるなんて。……何かあったのかい?」 「高野さん!」  高野さんの顔を見て唐突に思い出す。  そうだ。あの日、俺はここでこの人にあれを渡した。求人広告を出したのは高野さんの出版社だからとついうっかり。 「履歴書! 俺の履歴書、見せてもらえませんか!」 「履歴書?」  高野さんが怪訝そうに首をかしげる。 「今さらどうして? 何か確認したいことでもあるの?」 「実家の電話番号がわからないんです!」  辻島を押しのけるようにして叫ぶ。もうなりふりかまっていられなかった。 「自分でもどうかしてると思うんですけど、どうしても思い出せなくて……たぶん、緊急時の連絡先として書いたと思うんです! コピーでもかまいません! どうか見せてください!」  高野さんはきょとんとしていた。無理もない。自分でも馬鹿なことを言っている自覚はある。  だが、高野さんは笑った。別人のように皮肉げに。 「辻島くーん。君、ほんとに雨宮くんの辻褄合わせは苦手だねー」 「黙れ」 「ははは、無駄無駄。そんな怖い顔で睨んでも、僕に君の力は効かないよ。だから君の担当にされたんだし」  何かが狂っていた。  否。最初から狂っていたのかもしれない。  『どこに行っても通用しない』と言われたこの俺が、こんなに自分に都合のいい仕事になんかありつけるはずがない。 「雨宮くん。申し訳ないけど、君に履歴書は見せられないよ。そもそもそんなもの、預かってないからね」  高野さんがいつもの笑顔で言った。今ならはっきりわかる。この顔は仮面だと。 「きっとまた辻島くんが辻褄合わせると思うからぶっちゃけちゃうけど、君、ワナビをこじらせて発狂しちゃってね、精神科に放りこまれちゃったんだ。辻島くんの本職、実はそっち関係でね。君のことを偶然知って、どうしても引き取りたいって駄々をこねた。君も知ってのとおり、辻島くんの能力はとっても貴重だからね。いろいろ手を回して、辻島くんの希望を叶えてあげたわけ。あ、ちなみに君のご両親の記憶の中では、君は在学中に風邪をこじらせて死んだことになってるよ。彼らには小説家にも正社員にもなれずに発狂した息子はいないんだ。よかったね」 「高野! 黙れ!」 「だから、僕には効かないって言ってるでしょ。言うなら雨宮くんに向かって言いなよ。……また狂っちゃうよ?」  辻島がはっと我に返ったように俺を見下ろす。何かを言いかけ、固く唇を引き結んだ。  もう、何が嘘で本当なのかわからない。  しかし、きっと高野さんは出版社の編集者ではなく、辻島が外出していたのは買い出しのためだけではない。  そして、辻島が今まで改変してきた不出来な小説の作者はたぶん俺だ。俺が忘れてしまった小説のデータを、高野さんは何らかの方法で入手したのだろう。 「俺のどこがよかったんだ?」  思わずそう訊くと、辻島はつらそうに顔を歪めた。  ああ、また忘れていた。辻島は口で答えることができないのだった。  きっと、俺のこの質問に答えた瞬間に、俺は辻島が引き取りたいと思った俺ではなくなってしまうのだろう。  それでも、紙に書かれた言葉では知りたくない。  ならば、俺が辻島のために言ってやれることはもうこれだけだ。 「辻島。俺の記憶の辻褄を合わせてくれ。今度こそ破綻しないように」  辻島は目を見開いたが、すぐに嬉しげに笑った。  俺は今まで何度これを願い、何度この笑みを見てきたのだろう。  だが、俺がこう言わなければ、辻島は改変を始めることができない。  俺だけができる唯一の仕事。唯一の存在意義。 「了」
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