1 辻島北斗

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1 辻島北斗

 辻島(つじしま)北斗(ほくと)は無口な男である。  朝起きてから夜寝るまで、ほとんど言葉を発しない。  一応、奴の助手兼家政夫である俺にはもちろん、奴に仕事を回してくれる高野(たかの)さん――ご本人いわく零細出版社の編集者――にも、挨拶一つしたことがない。  しかし、これにはのっぴきならない理由がある。だから、俺も無理に奴にしゃべらせようとは思わない。奴はうかつに話すことができない難儀な人間なのだ。 『雨宮(あめみや)くん。お昼時に悪いね。お仕事だよ』  いつものようにまったく悪気のない声で、高野さんが俺たちの事務所兼自宅――管理人もいなければ認証システムもない、ザルセキュリティのマンションの一室――のインターホンから話しかけてきたのは、ちょうど俺が手抜きチャーハン(具は昨日の夕飯の残り)を作っていた真っ最中だった。  朝は苦手な辻島もさすがにもう起きていて、仕事場兼居間にあるベージュ色のL字型ソファにどっかりと座り、液晶テレビのニュース番組をつまらなそうに眺めていた。が、高野さんも含めて来客の対応はすべて俺まかせにしている。呼び鈴が鳴ったときには嫌味なくらい整った顔を玄関に向けていたが、誰が来たかわかるとまた画面に目を戻してしまった。  こっちの手がふさがってるときくらいおまえが出ろよとは思ったが、契約上、俺の雇用主は奴である。俺は内心文句をたらたら言いながら暗緑色の玄関ドアを開けた。  高野さんはたぶん三十代前半くらい。辻島ほど容姿は端整ではないが、それだけに奴よりずっと親しみが持てる。色黒なのも相まって、編集者というより営業マンのように見えるが、そういう編集者も出版社には必要なのだろう。  彼は俺の顔を見るとニカッと笑い、手に持っていた角形二号の茶封筒を有無を言わさず押しつけてきた。 「エプロンよく似合うね。……悪いけど、これ、急ぎの仕事でね。今日の夕方五時くらいに取りにくるから、それまでに完成させといてもらえるかな?」  セリフはお伺いの形をとってはいるが、実際問題、俺たちに拒否権はない。俺は封筒を抱えたまま、黙ってうなずくことしかできなかった。 「ほんとはコーヒーの一杯くらいごちそうになっていきたいところだけど、今日は僕も忙しくてね。夕方には何か差し入れ持って来るよ。じゃ、よろしくね」  一方的にまくしたてると、高野さんは右手を上げ、さっさと立ち去ってしまった。  これもまたいつものことだ。俺は軽く溜め息をついてから、辻島のいる居間に戻った。 「聞こえてたと思うけど、急ぎの仕事だってさ。……昼飯食ってからにするか?」  俺が声をかける前にこちらを見ていた辻島は、迷うことなくリモコンでテレビを消し、自分の左斜め向かいのソファを左の人差指で指した。――あそこに座れということだ。そして、そこが奴の助手としての俺の定位置でもある。辻島は昼飯前にこの仕事を終わらせてしまいたいらしい。 「わかったよ」  きっとあのチャーハンはパサパサになって、よりいっそうまずくなってしまうことだろうが、昼飯を後回しにしたのは辻島だ。自己責任で残さず食べてもらおう。俺は指示された場所に腰を下ろすと、封をされていない紙封筒から慎重に中身を引き抜いた。  厚さの増減はあるが、高野さんから渡される封筒の中身はいつもワープロ原稿だ。A4横で、四十字×四十行。レイアウトは見やすい。黒いダブルクリップで右肩を綴じられている。  かつて小説家をめざしていた――いや、実は今もあきらめていない俺は、このような原稿を見ると条件反射的に読んでしまう。俺たちには伏せておきたいのか、作品名も作者名も省かれているが、俺が抱く感想はいつも同じ。――下手くそすぎる。  しかし、これもまた俺の仕事の一つである。原稿からクリップを外し、封筒につけかえてから目の前の白いローテーブルの上に置く。膝の上に残した原稿を両手で持って辻島を窺えば、腕組みをして目を閉じていた。準備完了。半年も経てばいくら物覚えの悪い俺でもさすがに覚える。 「じゃ、読むぞ」  そう前置きして、俺は誰のものかもわからないその原稿を音読した。いつものように、添削したい衝動を必死で抑えこみながら。
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