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女性はゆっくり、ゆっくりと顔をあげる。じっとりと俺のこめかみと背中に嫌な汗が浮かぶ。
だが、彼女が浮かべていたのはどんな恨めし気とはとても言えない、穏やかな笑顔だった。恐怖がゆっくりと溶けてなくなっていく。
どこからか甘い香りが漂ってくる。なつかしい匂いだった。でも、どこで嗅いだのだろう?
女の人は、微笑みをたたえたまま口を開いた。
「あら、お帰りなさいヒデちゃん」
風が混じっているような、かすかな声。
「お庭をお散歩してきたの? 道路には出なかったでしょうね?」
言葉が進むにつれて、囁き声はだんだんとはっきりしてくる。
尻餅をついていた俺は、ゆっくりと座り直した。
いつの間にか、血だまりのある所に男の人が寝転がっていた。いや、血だまりの跡なんてどこにもない。きっと、何かを見間違えたんだ。
遠くからタケムラが呼んでいる。
「おい、ナオユキふざけてるのか?」
その言葉で、ぼんやりしていた頭が少しはっきりしたようだった。もっとはっきりさせようと首を振る。そうだ。俺の名前はナオユキだ。ヒデではない。
でも、本当にそうなのだろうか?
『あなたは記憶を失っていたのよ。自分の名前も忘れていたの』
昔、孤児院の先生は俺にそう言っていた。
『ただ、孤児院の門の前に立って泣いていたの。もっとも、ここに来たのは小さい時だったから、記憶があっても何があったのか上手にお話できなかったでしょうけど』
『僕の名前は先生がつけたの?』
『そうよ』
『じゃあ、僕の本当の名前はナオユキじゃないかもしれないの?』
『そうよ』
「おい、ナオユキ、どこにいるんだよ、出てこい」
かすかに、誰かが誰かを呼ぶ声が聞こえた気がした。
「ヒデちゃん、おやつまでもう少し待っててね。もうすぐお茶が沸くから」
おやつ! ああ、そうだ。この匂いはパンケーキの匂いだ!
お母さんが立ち上がって台所へむかった。
窓から差し込む光が、ぽかぽかと部屋の中を照らしだしている。
寝転がっていたお父さんは笑いながら立ち上がった。
「じゃあ、おやつができるまでお父さんとかくれんぼするか!」
ボクはうれしくなって駆け出した。どこに隠れよう、どこに隠れよう。そうだ、押し入れがいい!
ボクは押し入れの中に入り込み、フスマを閉める。ピシャ!
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