第五章【夢一夜】

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 現実を見据えつつ、文香は淡々と話した。 「私は、母があなたを侮辱する姿なんて見たくないし、母の言葉に傷つくあなたも見たくありません。だから、実家からの電話はもう、一切無視することにします」 「……だが、家族だろう。実の」 「実の家族が、重荷になることだってあります。それに、……十四年前の悲劇を、繰り返したくありません」 「悲劇?」  そこで文香は、部屋着の裾を捲って、へその横にうっすらついた縫合跡を指差した。 「これ、17歳の時に、私が自分でつけた傷です」 「えっ……」 「果物ナイフで、自分の腹を刺したんです。……らしいです」 「らしい、とは……」  冷めた表情のまま、文香は他人事のように語った。 「母と進路で揉めた時、あまりに腹が立って、頭に血が昇って……、気がついたら、ナイフがお腹に刺さっていました」 「えっ……」 「自分で覚えていないんですが、母に向かっていきなり、死んでやると叫んで、テーブルにあった果物ナイフで、自分を刺したそうです。我に返った時はもう、お腹は血まみれで、そのまますぐに、気を失ってしまいました」 「…………」 「目を覚ましたら病院のベッドの上で、手当ても済んでいました。周囲には盲腸で運ばれたことになっていて、このことを知っているのは、母と姉だけです」 「…………」 「でもそのお陰で、私は広島の大学に通うことを許されましたし、フフトルに入社出来ました。その結果、一紫さんにも出会えました」 「…………」  一紫はかける言葉を失くし、無言で恋人の体を抱き寄せた。  文香は素直に、男の胸に体を預け、凭れた。 「今の自由は、この傷で手に入れた自由です。もしあなたとの交際を母に反対されたら、私はまた違う代償を払うことになるかもしれません。だから、母には話しません。反対されると分かっているから……」 「……うん」  頷くことしか出来ず、一紫は女の頭を優しく撫でた。 「自傷行為をしたのは、その時だけか?」 「ええ。……ただ、私がセックス依存症なのは、そのせいかなって思ってます。快感の中にいれば、嫌なことを綺麗に忘れられるから……。その間だけは、すごく心が楽なんです。体の快楽のためじゃなくて、心の快楽のために、私はこれまで、セックスを求めて来たんだと思います」
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