第四章【杯の中の蛇】

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「わ……嬉しい」  文香は素直に喜び、男の言葉に従って、栄養ドリンクを飲んでまた横になった。 「一紫さん」  黙って部屋を出て行こうとする男を、文香は慌てて呼んだ。 「ん?」 「その……、しばらく隣にいてもらっても、いいですか……?」  控えめなそのお願いに、一紫は黙って彼女の枕元に移動した。 「これでいいかな?」  床に直接座り込みベッドに頬杖を突いた体勢で、一紫は指先でそっと文香の頬に触れた。  女は嬉しそうに微笑み、「はい」と答えた。  その笑顔はやはりどこか元気がなくて、相手が再び眠りに落ちるまで見守っていた一紫は、その寝顔を神妙な顔つきでじっと見つめた。  ―― 会社で、何かあったかな……。  いつも正直で素直なところが文香の魅力だったが、自身のトラブルはなかなか打ち明けようとしない所があり、また辛いことや悲しいことがあっても、それを限界まで耐えようとする性格でもある。  そういう所もいじらしく愛おしいが、いつも隣で見守っていたいと願う一紫からすれば、彼女のこの性格は厄介でもあった。  ―― 何があったか訊ねても、この様子じゃあ、すんなりと打ち明けてはくれそうにないな……。  だが、吐くというのはどう考えても尋常ではない。  もし文香のあれがただの体調不良でなく、極度のストレスを受けたことから来るものなら、その原因を放っておくことは出来なかった。 “オイミャコン村”なんてあだ名からも、親しい友人がおらず、感情をあまり表に出さない性格という自己申告からも、文香の会社での様子は、見なくとも想像はついた。  だから人によっては、そんな彼女に反感を抱く人間もいるだろうことも、安易に推測出来た。  だが本当の彼女は、素直で優しい心根を持った、ごく普通の女の子なのだ。  おそらく実母との確執が、彼女から人懐こい笑みを奪い、他者と一線を引く用心深い性格を生みだした。  ある意味、文香自身が犠牲者だが、社会ではそんな言い訳は認められない。  朱に交わらない白は迫害され、長いものに巻かれない存在は疎んじられる。それが社会の現実だ。  だからと言って、不当な攻撃は容認されるべきではない。  一紫は眠る恋人の額にそっと手を置き、小さく呟いた。 「何があっても、俺は君の味方だから……」  文香はぐっすり眠っていた。  ただ白い月だけが、男の告白を黙って聞いていた。
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