第一章【隣は何をする人ぞ】

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「高校卒業後、土方仕事をしながら学費を貯めて、夜間大学を卒業した。大学卒業後に、知り合いのツテを頼ってある出版社社長に拾われて、使いぱしりのような仕事をした。その後……」  そこでいきなり、彼は黙った。  文香は無言のまま、相手の次の言葉を待っていた。  和史は一呼吸置いて、言葉を継いだ。 「色々あって……、今は、物書きをしている」 「え。田中さんて、作家なんですか?」 「うん」  当然のように文香は、「どんな本を書かれているんですか」と訊ねて来た。  この質問に関しては、和史は最初、答えることを渋った。  それは単純に、書いている本のジャンルを明かせば、彼女がドン引きすると恐れたからだ。  だが秘密にしているのも不自然だし、卑怯な気がした。  だから引かれるのを覚悟で、「大人向けの本」だと明かした。  最初、意味が分からずキョトンとした文香だったが、男が言い難そうに、「いわゆる、官能小説ってヤツ……」と呟いたため、ようやく理解出来たらしく、「なるほど」と呟いた。  彼女の言葉は、それだけだった。  びっくりするでも、興味津々になるでもなく、「なるほど」と一言だけ。  その反応を予想していなかった和史は、それで逆に不安になった。  一見、何の感情も見せない文香だったが、本当は心の中で幻滅し、自分への不快感を覚えたのではないかと、そう危惧した。  それでわざと、「驚いただろう?」と訊ねた。  しかし文香は「いえ、別に」と真顔で答えた。 「むしろ納得しました。絶対に普通の勤め人ではないと思っていたので。作家さんなら、在宅のお仕事ですものね」 「ああ、まぁ……」  肩透かしを食らった気分で、和史は答えた。 「でも田中さん。仕事に支障ないと仰っていましたけど、文筆業なら、右手が使えないと困るんじゃないですか?」 「ああ、まあね」  ガッチリとギプスで固定された右手を見て、和史は他人事のような顔で答えた。 「ただあの怪我をした日は、新作の脱稿を終えたばかりでね。しばらくは書かなくても大丈夫。出版前の手直しはあるけど、そこは担当に事情を話して、どうにかしてもらう」 「……ひょっとして、たまにお見かけするサラリーマン風の男性は、担当編集の方ですか?」
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