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「高校卒業後、土方仕事をしながら学費を貯めて、夜間大学を卒業した。大学卒業後に、知り合いのツテを頼ってある出版社社長に拾われて、使いぱしりのような仕事をした。その後……」
そこでいきなり、彼は黙った。
文香は無言のまま、相手の次の言葉を待っていた。
和史は一呼吸置いて、言葉を継いだ。
「色々あって……、今は、物書きをしている」
「え。田中さんて、作家なんですか?」
「うん」
当然のように文香は、「どんな本を書かれているんですか」と訊ねて来た。
この質問に関しては、和史は最初、答えることを渋った。
それは単純に、書いている本のジャンルを明かせば、彼女がドン引きすると恐れたからだ。
だが秘密にしているのも不自然だし、卑怯な気がした。
だから引かれるのを覚悟で、「大人向けの本」だと明かした。
最初、意味が分からずキョトンとした文香だったが、男が言い難そうに、「いわゆる、官能小説ってヤツ……」と呟いたため、ようやく理解出来たらしく、「なるほど」と呟いた。
彼女の言葉は、それだけだった。
びっくりするでも、興味津々になるでもなく、「なるほど」と一言だけ。
その反応を予想していなかった和史は、それで逆に不安になった。
一見、何の感情も見せない文香だったが、本当は心の中で幻滅し、自分への不快感を覚えたのではないかと、そう危惧した。
それでわざと、「驚いただろう?」と訊ねた。
しかし文香は「いえ、別に」と真顔で答えた。
「むしろ納得しました。絶対に普通の勤め人ではないと思っていたので。作家さんなら、在宅のお仕事ですものね」
「ああ、まぁ……」
肩透かしを食らった気分で、和史は答えた。
「でも田中さん。仕事に支障ないと仰っていましたけど、文筆業なら、右手が使えないと困るんじゃないですか?」
「ああ、まあね」
ガッチリとギプスで固定された右手を見て、和史は他人事のような顔で答えた。
「ただあの怪我をした日は、新作の脱稿を終えたばかりでね。しばらくは書かなくても大丈夫。出版前の手直しはあるけど、そこは担当に事情を話して、どうにかしてもらう」
「……ひょっとして、たまにお見かけするサラリーマン風の男性は、担当編集の方ですか?」
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