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「ああ、溝口(みぞぐち)さんのこと? うん。彼は、俺が契約している出版社の、担当者だよ。普段はメールか電話でやり取りしているけど、たまにこっちに用があると、寄ってくれる。その時に、次に出す本の打ち合わせをやってるんだ」
また「なるほど」と、文香は呟いた。
「それで、全て合点が行きました。自分が想像していたより、ずっと平凡な真相でしたけど」
「平凡?」
「ええ。私はその溝口さんと田中さんが、いわゆる禁断の恋の関係かと思ってたので」
「なっ……」
再び想像を越える発言をされて、和史は驚きの余り呆気に取られた顔をした。
「まあ、現実はそんなものですね」
したり顔で頷く文香を、和史はしばらく呆然の態で見つめていたが、そこでクスクス笑い始めた。
「……全く。やっぱり、君は変わっている」
「最初にそう申し上げましたけど」
「うん。だけど、改めて実感したよ。俺の職業を聞いて微塵も表情を変えなかった相手は、君が初めてだ」
「そうですか? ……へぇ」
文香は意外そうに呟いた。
そんな彼女を見て、和史は自分の左手が無意識に上がったことに気付き、慌ててその手を下ろした。
咄嗟に、相手の頭を撫でたい衝動にかられた自分に気付いて、彼は自分自身に愕然とした。
―― 一体……。俺は今、何をしようとしたんだ……。
だが、素直に嬉しかった。
官能小説家と聞いても、文香の態度が全く変わらなかったことに。彼女の中に、自分の職への偏見がなかったことに。
その事実が、ただひたすらに、嬉しかった。
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