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◇
「……風呂に、入るよ」
―― これ以上、動悸が早まるような台詞を聞かされるとヤバイ……。
頭の中で警報が鳴り始め、和史は急いで立ち上がった。
「あ、はい」
文香も慌てて立ち上がり、こちらは何事もなかったかのように、男の後について脱衣所に入った。
いつも通り、男がシャツを脱ぐのを待って、文香は男の右手にビニール製のカバーを嵌めた。
ネット通販で見つけた怪我人用の防水カバーで、これを買ってから、男の入浴準備はかなり手早く出来るようになった。
「これ、俺一人でもつけられるんだが」
前にも言った台詞を、和史は呟いた。
文香はカバーの具合を確認しながら、「私がいるんですから、一人で苦労しながら嵌めなくても……」と、こちらも同じ台詞を繰り返した。
「まあ、そうなんだが……」
自分のセミヌードを見ても、表情一つ変えない彼女を見て、和史は複雑な気分で呟いた。
インドアの作家業を続けている間も、週1でジムに通って鍛えた体は、中年太りとは無縁の見事な筋肉美を誇っていた。
だからこそあの日、階段から落ちそうになった名前も知らない隣人を、片腕で助けられる(はず)と無謀にも思ったのだ。
しかしいくら痩せているとは言え、成人女性である文香の体は、40キロ以上の重量があり。
普段、10キロのダンベルを軽く上げ下げしていた己の右腕は、その四倍以上の負荷に堪えられず、肉のみならず骨までも砕いた。
それは同時に、男の自尊心も打ち砕いた。
どんなに鍛えていても、咄嗟の時に女性一人守れないようでは、全く意味がないじゃないか、と思った。
自身の不甲斐なさを嘆く和史にとって、文香の過剰とも言える感謝の態度は、逆に惨めさを助長した。
礼はいいと言っても、治療費を出させろと言い。
治療費はいらないと言えば、身の回りの世話をさせろと言う。
いずれ負担になって根を上げるかと思ったが、この十日余りの彼女の態度を見る限り、これは、一ヶ月だろうが二ヶ月だろうが、この怪我が治るまでは絶対に続けるつもりだな、という勢いだった。
相手の白旗を待つつもりでいた和史だったが、今は、自分の方が限界に近い。
きっと近い内、自分は彼女に“何か”をしでかす。
それが何かは分からないが、自分と彼女にとって、最悪の結末を齎すだろうことは、分かる。
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