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「昨日、髪を洗ったから……、今日は、濡れないように纏めますね」
洗髪は二日に一回、と言った男の言葉に従って、文香はヘアゴムを用意して、言った。
「ああ、うん……」
和史が頷くと、文香は「ちょっと屈んで下さい」と、自分より20センチ近く高い相手に言った。
和史が身を屈めると、文香は器用に男の髪を後ろで団子状に纏めた。
そんな自分を洗面台の鏡で見て、和史はポツリと言った。
「明日、床屋へ行ってくる」
「え……?」
「……毎度毎度、怪我が治るまで君にこんなことまでさせるのは、気が引けるし。これから暑くなるから、いっそ坊主にでもしようかと……」
途端、「ちょっ、駄目ですよっ!!!」と、文香は悲鳴のような声を上げた。
和史がびっくりして振り向くと、深刻な顔つきの彼女と目が合った。
「こんな綺麗な髪、絶対に切っちゃ駄目ですよ! それこそ坊主なんて、絶対に絶対に、駄目です!」
「いや、しかし……」
「何と言われようと、駄目です! 私のために、そんなもったいないこと、しないで下さい! 田中さんの場合むしろ、もっと伸ばしてもいいくらいです!」
「伸ばすって、どのくらい?」
「私くらいです」
「それは、かなりの長髪になるな」
「いいじゃないですか。そんな天然の茶髪、多少長くても、全然綺麗だし、いいと思います。あ、そう言えば、以前二人で、スーパーに行ったことがあったでしょう? あの時お店ですれ違った女子高生の二人組が、田中さんを見て、“超綺麗”って言ってたんですよ。あれってきっと、田中さんの髪を見て言ったに違いないです」
「……そう」
必死とも言える口調で散髪を阻止しようとする文香を、和史は静かに見下ろした。
「……君がそこまで言うなら、切るのは止めよう」
「はい」
文香がホッとして、笑顔になるのと、同時だった。
和史がまた身を屈め、自身の視線を彼女と同じ高さに合わせた。
至近距離で相手と見つめ合い、文香はびっくりして声を失くした。
深緑色の瞳が、静かに文香を見つめる。
「俺の髪は、そんなに綺麗かな」
「あ、はい……」
呆然と呟きながら、文香は思った。
―― 髪だけじゃなくて、肌も、目も、凄く綺麗です……。
でもその言葉は、喉の奥で飲み込んだ。
それを口にするのは、ひどく危険な行為に思えたのだ。
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