第一章【隣は何をする人ぞ】

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「昨日、髪を洗ったから……、今日は、濡れないように纏めますね」  洗髪は二日に一回、と言った男の言葉に従って、文香はヘアゴムを用意して、言った。 「ああ、うん……」  和史が頷くと、文香は「ちょっと屈んで下さい」と、自分より20センチ近く高い相手に言った。  和史が身を屈めると、文香は器用に男の髪を後ろで団子状に纏めた。  そんな自分を洗面台の鏡で見て、和史はポツリと言った。 「明日、床屋へ行ってくる」 「え……?」 「……毎度毎度、怪我が治るまで君にこんなことまでさせるのは、気が引けるし。これから暑くなるから、いっそ坊主にでもしようかと……」  途端、「ちょっ、駄目ですよっ!!!」と、文香は悲鳴のような声を上げた。  和史がびっくりして振り向くと、深刻な顔つきの彼女と目が合った。 「こんな綺麗な髪、絶対に切っちゃ駄目ですよ! それこそ坊主なんて、絶対に絶対に、駄目です!」 「いや、しかし……」 「何と言われようと、駄目です! 私のために、そんなもったいないこと、しないで下さい! 田中さんの場合むしろ、もっと伸ばしてもいいくらいです!」 「伸ばすって、どのくらい?」 「私くらいです」 「それは、かなりの長髪になるな」 「いいじゃないですか。そんな天然の茶髪、多少長くても、全然綺麗だし、いいと思います。あ、そう言えば、以前二人で、スーパーに行ったことがあったでしょう? あの時お店ですれ違った女子高生の二人組が、田中さんを見て、“超綺麗”って言ってたんですよ。あれってきっと、田中さんの髪を見て言ったに違いないです」 「……そう」  必死とも言える口調で散髪を阻止しようとする文香を、和史は静かに見下ろした。 「……君がそこまで言うなら、切るのは止めよう」 「はい」  文香がホッとして、笑顔になるのと、同時だった。  和史がまた身を屈め、自身の視線を彼女と同じ高さに合わせた。  至近距離で相手と見つめ合い、文香はびっくりして声を失くした。  深緑色の瞳が、静かに文香を見つめる。 「俺の髪は、そんなに綺麗かな」 「あ、はい……」  呆然と呟きながら、文香は思った。  ―― 髪だけじゃなくて、肌も、目も、凄く綺麗です……。  でもその言葉は、喉の奥で飲み込んだ。  それを口にするのは、ひどく危険な行為に思えたのだ。
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