第二章【恋は思案の外】

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    1  ゴールデンウィークを一週間後に控えた、4月22日。  文香の所に、姉の弥生(やよい)から電話があった。  仕事中だった文香は電話に気付かず、彼女は録音された姉のメッセージを聞いた。 『もしもし、文香? お姉ちゃんだけど……。今年のゴールデンウィーク、お母さんが、絶対に帰って来なさいって言ってるの。あんたの都合もあるだろうから、とりあえずこの伝言を聞いたら電話を頂戴』  文香はその素っ気ない伝言を、仕事帰りの路上で聞いた。  知らず、重い溜め息が彼女の口から洩れた。  文香の実家【呉服さの屋】は、創業60年になる呉服店だ。  祖父の代から続くその店は、今は母が社長、婿養子の父が副社長で、姉が取締役専務、父と同じく婿養子の義兄が取締役常務という役職にあり、完全なる家族経営の会社だった。  しかし昨今の着物ブームに上手く乗り、着物の販売のみならず、レンタルからクリーニング、着付け教室に七五三や成人式での写真撮影など、事業を拡大したことが逆に功を奏し、祖父の代より会社の規模も利益率も大きくアップしている。  それはまさしく、佐野家で女帝の如く君臨する母、葉子(ようこ)の手腕に他ならないが、文香はこの母が昔から苦手だった。  勤務先のルイ様こと高木麻理子も、強引な性格で迫力ある女社長ではあるが、葉子はその顔つきも口調も存在感も、他に有無を言わせない圧倒的な威圧感の持ち主で、かつ自分にも他人にも非常に厳しい性格だった。  そんな母に対し、長女である弥生は、ひたすら真面目に従順に娘としての務めを果たすことに邁進し、次女の文香は派手な反抗はしないものの、幼い頃に姉と一緒に習わされた生け花も茶道も早々に辞め、家政科へ進めと言われて進学校に願書を出し、女子大へ行けと言われて共学に進んだ。  ゆえに葉子の方も、文香に対しては常に冷たく素っ気ない態度を貫き、それを妹の水香(みか)と父親の章生(あきお)は、ナナハチ戦争と呼んだ。アメリカとソ連の米ソ冷戦になぞって、文香(7月生まれ)と葉子(8月生まれ)の冷たい戦争と言うわけだ。
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