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「216円になります」 これでもかと言うくらい冷房の効いた店内に、可愛らしい店員の声が響いた。 続いて、購入したサンドイッチを入れる、ビニール袋の人工的なノイズ。釣り銭を受け取ると、隣のレジにいた老人が小銭を落としたのを拾ってやった。 東京の夏は暑い。どこにいたって、どんよりとのしかかってくるような湿気から逃れることはできない。湿気で身体が錆び付いて、動きが鈍くなってしまうのではないかとも思うが、いや、逆に潤滑油のような働きをしてくれるのだろうか。ゆっくりだが、なめらかに動く気もしないではない。 室内にいればいいのだろうが、部屋の中は、蝉の声が聞きづらいという欠点がある。 せっかくの夏なのだから、季節感を堪能すべし。 とはいえ皮膚が焼けただれそうな炎天下を何時間もさまよう訳にはいかない。俺はのんびりと、自分のアパートへ向かった。どうせ昼間は寝るしかないのだ。少しでも夜の為に、体力を残しておかなければならないのだから。 「ねえちょっとそこの......黒髪の!」 誰かがそう叫ぶのが聞こえた。 俺か?黒髪なんてどこにでもいるだろうと思いながらも、一応振り返ってみた。 呼び止めたのは俺と同じ年くらいの男だった。ジーンズに白いTシャツで、どこにでもいるような格好をしている。が、一瞬はっとするくらいの美青年に見えた。口紅でも塗っているのではないかと思うくらい赤い唇、切れ長の目。一瞬、というのは、よく見ると服と同じく、どこにでもいるような顔立ちだったのだ。 「俺すか」 「そう君。これ、落としましたよ」 そう言って男は、毛むくじゃらのクマのぬいぐるみを差し出してきた。 「それ、俺のじゃないです」 男は目を丸くして、困ったように笑った。事実、困っているのだろう。 「あれっ、おかしいなぁ。すいません」 いかにも女子が好みそうなぬいぐるみを、大人の男が持っている方がどうかしている。 「じゃ、交番、届けてきますね。お騒がせしました」 さらりと出てきた単語に、思わず体を震わせてしまうところだった。 普通の人間は、交番に警戒することなどないのだ。 男はそのままぬいぐるみをポケットに雑に突っ込むと、反対方向へ歩いて行ってしまった。 暫くの間、ポケットからはみ出ているクマの片腕をぼーっと見詰めていたが、ふと、アパートに帰ろうと思っていた事を思い出した。
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