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彼の唇がわたしの名前を形作って動いた、その事実に
思わず手に持っていたスプーンを落としてしまい
カシャン、と金属音が鳴り響く。
それでもただただ呆然として動けずにいたわたしの代わりに
航輝さんが足元に落ちたスプーンを拾い上げ、わたしの目の前に差し出した。
わたしはそれをおずおずと受け取りながら、航輝さんの瞳を真っ直ぐ見つめる。
その瞳は少し赤くなっていて、潤みがかっていた。
「…………航輝、さん?」
確かめるように彼の名を呼んだ途端
弾けたように彼は目を見開き、
痛みを我慢するようにぎこちなく笑った。
「……ただいまって言ってもいいですか?」
もう忘れてしまったと思っていた航輝さんの声。
ひとたび聴けば鮮やかに蘇ってきて
恋い焦がれたその声に、言葉に
わたしは堪えきれず、顔を手のひらで覆った。
瞳の奥から熱いものが込み上げてきて、止まりそうになかったから。
溢れ出る涙をどうにか指で拭い、無理やり笑顔を作ってわたしはようやく答えた。
「……おかえりなさい」
言い終わるか終わらないかのところで
航輝さんはわたしを強く抱き寄せた。
ぎゅうっと、痛いくらい、強く。
胸元から聴こえてくる航輝さんの鼓動。
紛れもない、彼の温もり。
もう包まれることは一生ないと思っていた、航輝さんの腕。彼の香り。
夢なんじゃないかと、触ったら弾けて消えてしまうんじゃないかと思ったけれど
航輝さんの背中に腕を回してみても、無くならなかった。
ぎゅうっと、航輝さんに負けず劣らず力いっぱいしがみついても、彼は消えない。
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