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それから彼は息の続く限りに逃げた。一歩でも先に『あの女』から遠ざかろうとして。進む方角などまったくのデタラメである。ただ一心不乱に駆け抜けたのだ。
だからこそ無意識の内に辿り着いてしまったのだろう。
ささやかながらも島村が城主として君臨できる唯一の場所へ。
木造二階建て、六畳二間の彼の聖域。
安普請な戸板がバタンと悲鳴を上げて閉じられた。もんどりうって飛び込んだ部屋は、いつものように彼を迎える。ホッとしたのも束の間、島村はあの木管を探した。すべてはあの木管を手にしてからおかしくなった。例の一夜以来、なんとなく不気味に思って目の付くところから隠しておいたのに。
だが、
「な、ないぃ? なんでだよ! あれがないと! あれがないと……」
箪笥を見ようと机の引き出しを開けようとそれはなかった。
たしかにしまったのに。それすらも全部夢だったのだろうか。
いや、だとすればこの指の痛みはなんだ?
きっとあの木管は開けてはいけないものだったのだ。中に入っていた指は、『あの女』のものに違いない。ではもう一本の指は――。
コンコン
妙に静かな安アパートに、戸板を叩く音だけが鳴り響く。
自然と手の止まった島村の首筋に、いやな汗が流れ落ちる。そして右手の小指からはポタポタと血が滴り、ささくれ立った畳表を赤く染めた。「コンコン」と、何度か戸板は鳴らされる。そして島村が出ないと分かるや、今度はドアノブが「ガチャガチャ」と乱暴に回される音に変わった。
島村は動けなかった。またしても金縛りである。
いや、仮に金縛りでなかったとしてもどうしたらいいのかなど分かるはずもない。
ただひたすらに恐ろしく、抗う気力さえそがれていく。
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ――。
不規則に刻まれる音が、ドアの向こう側にいる『何者か』を強烈に意識させる。もしあのドアが破られたら――そう考えるだけで島村はどうにかなってしまいそうだった。
真っ暗闇の部屋の中。
そらすことのできない視線。
島村は見た。ドアの隙間から漏れる、廊下側のわずかな照明が揺らぐのを。
そしてその直後、ドアノブを回すあの不快な音が突如として消えた。
「終わった……のか……」
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