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拍子抜けするほど突然に訪れた安堵感に、島村はどこか置いてけぼりを食らったような気分を味わう。金縛りもいつしか消え去り、身体には淡いしびれだけが残った。だが腰が抜けているのか、思うように立ち上がることはできない。
果てしない緊張からの脱力感。
島村は畳を背にしてごろんと横になった。仰向けのまま、おぼろげに天井を見る。しかし、そこには彼を見下ろす白い顔があった。大きな目を開け、耳まで割け切った赤い口は暗闇に弧を描く。
動けない島村の頭上から、まるで覗き込むように『あの女』が見ている。
ヒタヒタと嗤うだけのその女は、島村のおびえる表情をすすり飲むかのように言う。
やくそくしたものねぇ
女の顔は見る間に溶けて、垂れ下がる皮膚は細い何かへと変貌する。それは縫い針だ。一本一本がきわめて鋭利な裁縫針。あっという間に女の顔は原型を失い、髪の毛を生やした大量の針となる。だが島村はこの恐ろしい光景を前にしても、声ひとつ漏らさなかった。
なぜなら針は、すでに彼の口の中へと注ぎ込まれていたからである。
*****
その日もいつものように店を開け『明洞庵』の老店主は、愛用のパイプ片手に朝刊の文字を拾い読みしていた。老眼をくいっと上げ、小さな地方欄の記事に視線を落とす。
『交際中の男女が相次いで怪死。女性は撲殺。男性会社員は自宅アパートでショック死。体内からは大量の縫い針が発見――』
「ぶっそうだねぇ……」
老店主は眉根を寄せてわずかに首を振った。
しばらくして朝一番の客が来る。一見して年齢の分からない、どこか品のある女だ。
女は店内に陳列されている珍しげな品物にはわき目も振らず、まっすぐに老店主の座る番台へとやってきた。そして言葉少なに、複雑な紋様が施された木管を取り出す。
木管を手にした右手には、小指が一本欠けていた。
「もう値段はつかねえよ。それでもいいのかい?」
すると女は静かに首肯して、そのまま店をあとにした。
老店主は重い腰を上げ、おもむろに木管を掴んで陳列棚へと歩き出す。曲がった腰をかばうようにヨタヨタと。
「やっぱり戻ってきちまったか。これで何度目だい」
陳列棚の一番奥。雑多な品物が置かれるその目立たない空間に木管を載せると、老店主は誰に言うでもなく呟いた。
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