2:月と百目鬼。

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正直、俺は期待していなかった。 そもそもここは3階の女子トイレじゃないし、そんな名前をちゃんと呼んだくらいで事態が変わるはずがない。 そう思っていた矢先、辺りの空気が変わった。 途端に風が強くなり、桜の花びらが舞い上がる。 そして――…… 「は、はあああああいぃぃぃぃ……」 どこからともなく聞こえてきた少女の声に、俺は思わず息を呑んだ。 咄嗟に俺は左耳に触れた。 今、確かに少女の声が聞こえた。 けれど、一体どこから? ここには俺たち以外に人はいないではないか。 だが、用務員さんは平然としているし、ペンギンに至っては拍手をするように両手をパチパチと叩いている。 「ほら、こいつがお前の会いたがっていたはなこだ」 用務員さんはそう言いながらスッと正面を指差した。 だが、そこには何もない。 見えたとしても俺にはただの原っぱしか見えない。 でも、ペンギンは彼が指したところへ行き、挨拶するようにペコっと頭を下げた。 唖然としている俺を見て用務員さんは嘆息を吐く。 「なんだよお前……せっかく呼んだのに視える素質ねえのかよ」 呆れたような用務員さんの言葉に、俺は「え……」と彼を見た。 その時、また少女の恥ずかしげな声が聞こえてきた。 「あ……ペンギン可愛い……それにこの人、花壇に綺麗なお花を植えている人だ」 とても小さく、普段の俺なら聞き取れないような声量だった。 なのに、ちゃんと聞き取れた……聞こえないはずの左耳で。 「用務員さん……これって……」 冷静を装っていたつもりだが、声が震えていた。 誰でもいいから今の状況を俺にわかるように教えてもらいたかった。 それなのに、どうしてタイミングというのはこうも悪いのだ。 ペンギンは突然何かに気づいたのか、ビクッと肩を竦めた後、慌てた様子で用務員さんに駆け寄った。 ペンギンの異変に用務員さんは何か察したのか、切れ長の目を凝らし、じっと遠くを見据えた。 すると向こう側にある西門から髪の長い女性の姿が見えた。 この距離からでは顔は見られないが、背筋がしゃんと伸びた綺麗な歩き姿はここからでも確認できる。 「何かと思ったら瑞月(みづき)かよ」 彼女の姿を見た用務員さんはまた訝しげな顔を浮かべたと思ったら、即座に自分の足元にいたペンギンを持ち上げた。
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