2:月と百目鬼。

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「あとは勝手にやってくれ」 用務員さんは脇に挟むようにペンギンを抱えると、逃げるようにこの場を去った。 「ちょっと! 置いてくなよ!」 咄嗟に止めるが用務員さんは俺の声を完全に無視してプールがあるグラウンドのほうへと突き進んでいく。 用務員さんに抱えられたペンギンは「ばいばい」と手を振るが、それもすぐに見えなくなってしまった。 行ってしまった彼らの背中を呆然としながら眺めていると、後ろから声が聞こえた。 「あの……君は私が視えるの?」 さっきと変わらない、どこか緊張しているおどけた少女の声だ。 「……視えないけど、聞こえているぞ」 徐に振り向いてみるが、やはりそこには少女の姿はない。 それでも少女は「そうなんだ」と嬉しそうな声をあげた。 「わ、私……はなこって言うの……き、君は?」 姿は視えないけれど、恥ずかしそうにもじもじといている彼女の姿は容易に想像できた。 「安平……ダイチ」 そう名乗ると、彼女は「素敵な名前だね」と笑った気がした。 彼女の声を聞いているうちに、胸の奥から何か込み上げてくる感じがした。 聞こえている。 俺の左耳が、彼女の声を拾っている。 あの時聞いた声も偶然ではなかったのだ。 俺の左耳が、ちゃんと機能している。 そう認識した時、頬から生ぬるい雫がつたった気がした。 慌てて手で拭うと、目が涙で濡れていた。 「あれ……なんで俺、泣いているんだろ」 拭っても拭っても俺の手は濡れている。 それどころか、涙が止まってくれず、だんだんと視界が歪んできた。 彼女が俺に近づいたのか、顔面にふわっとしたような緩い風が吹いた。 「ど、ど、ど、どうしたの?」 左耳から彼女の戸惑う声が聞こえる。 「ちげえんだよ……なんでもないんだ……」 そう言ってみるが、声が震えて涙声になっている。 ――もうだめだ。 「ごめん! また今度な!!」 俺は足元に転がっていた自分の鞄を拾い上げ、一目散に駆け抜けた。 これ以上情けない顔を、誰にも見られたくないのだ。 「あ! まままま待って!」 彼女の慌てた声が聞こえたが、俺は振り向かなかった。 それでも俺の左耳には、彼女の声音がしっかりと残っていた。
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