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信じられなかった。
俺の耳はあの親父が信頼を寄せていた知り合いに診てもらった。
道内でも優秀な耳鼻科の医者だったはずだ。
そんな人ですら俺の左耳を治せなかったのに。
でも、ハナの声のトーンは真剣そのもので、彼女が嘘をついているようには見えなかった。
「"厠の神"はね、昔から目や耳や歯に災いと癒しを与えることができるの。だ、だから……」
だが、ハナもそれ以上は言えなくなり、また沈黙が続いた。
俺の手は無意識に左耳に触れていた。
癒しの力なんて考えたことがなかったが、もし俺の左耳が治ったら、この生きづらさも胸の痛みも全部なくなるのではないか。
バレーボールもまたできるかもしれないし、母さんも悲しまなくていいし、親父とだって――……
それなのに、この胸騒ぎはなんなのだろう。
こんなに苦労しているのだから、治せるなら絶対治したほうがいいのに、俺は首を縦に振ることができなかった。
左耳が治ったら、あの日チームメイトに迷惑をかけたこともなくなってしまうのではないか。
それも一理ある。
ただ、それよりも恐れているものがあった。
左耳が治ったら、もうハナの声が聞こえなくなるのではないか。
「嫌だ……」
気づけば本音が漏れていた。
その言葉にハッとしたハナが息を詰まらせた。
「あ……」
やばいとは思ったのに、俺はこれ以上何も言えなかった。
嫌な沈黙が続く。
「そっか……そうだよね」
沈黙を破ったハナはクスッ笑っていたが、その声から彼女がシュンとしていることがわかった。
「ごめんね。私、余計なことを言ったのね」
ハナが強がっていることはその声から十分伝わっていた。
「そんなこと……ねえよ」
彼女のから笑いを聞くと心が締め付けられた。
ハナは俺のことを思って言ってくれたのに、俺はその善意を踏みにじってしまったのだから。
悪いのは俺で、ハナが謝ることなんてないのに。
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