4:その目は逃さない。

6/12
前へ
/56ページ
次へ
信じられなかった。 俺の耳はあの親父が信頼を寄せていた知り合いに診てもらった。 道内でも優秀な耳鼻科の医者だったはずだ。 そんな人ですら俺の左耳を治せなかったのに。 でも、ハナの声のトーンは真剣そのもので、彼女が嘘をついているようには見えなかった。 「"厠の神"はね、昔から目や耳や歯に災いと癒しを与えることができるの。だ、だから……」 だが、ハナもそれ以上は言えなくなり、また沈黙が続いた。 俺の手は無意識に左耳に触れていた。 癒しの力なんて考えたことがなかったが、もし俺の左耳が治ったら、この生きづらさも胸の痛みも全部なくなるのではないか。 バレーボールもまたできるかもしれないし、母さんも悲しまなくていいし、親父とだって――…… それなのに、この胸騒ぎはなんなのだろう。 こんなに苦労しているのだから、治せるなら絶対治したほうがいいのに、俺は首を縦に振ることができなかった。 左耳が治ったら、あの日チームメイトに迷惑をかけたこともなくなってしまうのではないか。 それも一理ある。 ただ、それよりも恐れているものがあった。 左耳が治ったら、もうハナの声が聞こえなくなるのではないか。 「嫌だ……」 気づけば本音が漏れていた。 その言葉にハッとしたハナが息を詰まらせた。 「あ……」 やばいとは思ったのに、俺はこれ以上何も言えなかった。 嫌な沈黙が続く。 「そっか……そうだよね」 沈黙を破ったハナはクスッ笑っていたが、その声から彼女がシュンとしていることがわかった。 「ごめんね。私、余計なことを言ったのね」 ハナが強がっていることはその声から十分伝わっていた。 「そんなこと……ねえよ」 彼女のから笑いを聞くと心が締め付けられた。 ハナは俺のことを思って言ってくれたのに、俺はその善意を踏みにじってしまったのだから。 悪いのは俺で、ハナが謝ることなんてないのに。
/56ページ

最初のコメントを投稿しよう!

115人が本棚に入れています
本棚に追加