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玄関前で女の子に抱きつかれた。その現場を見られた。それをなんでもないと説明したら、この人はただ、そうかと。
そうか。そうかって。それだけで済ませられるような事だったか。そんなに適当な返事一つ。それだけで本当にいいのか。
そんなはずはない。いいはずがない。違うだろ。あんたにとってはそれだけの事じゃない。それだけの事にされるのは嫌だ。
「……気にならないんですか」
仕切り越しに呟いた。瀬名さんは黙ったままだ。
「俺がこんなこと言うのも、おかしいんですけど」
目を逸らされたのがショックだった。関係がないとでも言うように、俺の前を通り過ぎた。
あれは誰だと聞いてほしくて、だけどこの人は俺を責めない。何も言わずに一線を引かれ、俺はガキっぽくもがいている。
「言い訳するきっかけくらい、くれたっていいじゃないですか」
夜の空気に自分の声がただただ虚しく散っていく。恥ずかしくなるほど惨めだった。おかしな事を口走り、残ったのは後悔一つ。
隣同士のベランダに重苦しく落ちた沈黙。いくら待っても瀬名さんからの反応はなかった。これ以上待ってみて、それでも何も言われなかったら、俺は今度こそ恥も何もないような事をこの人に言ってしまう。
「ごめんなさい……。戻ります」
そうなる前に手摺りから手を離した。明日の夜も瀬名さんは俺の部屋にいるだろうか。もう来ない確率が半分。全てなかった事にされる確率が残りの半分。
俺達の関係がぺらっぺらに薄いことは分かっているから、窓を開ける腕は重かった。ところがカラカラと音が鳴った直後、隣から少し強めに響いた。
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