好きな人

27/27
前へ
/1398ページ
次へ
 そもそも人を招くのに適した時間帯ではない。マグカップの中身がなくなると瀬名さんは腰を上げていた。  玄関から見送る俺の頬に、この人はもう一度だけゆっくりと口づけてきた。ほんの微かな接触はすぐに終わる。確かめるみたいにその箇所を撫で、俺の目を見て静かに言った。 「じゃあな」 「……はい」  素っ気ない、訳じゃない。だってこの人笑ってる。来た時のような堅苦しさはなくなっていて、少しだけ悪い顔をして真っ直ぐに目を向けられた。  出ていってしまう寸前、おやすみなさいと言って呼び留めた。そうすればおやすみと返される。その時のやわらかい表情が、頭の中にこびりついた。 「……クソ」  恥ずかしい。前よりもずっともどかしくなった。  自分の頬を手のひらで覆った。頬にも額にも、こんな場所にキスなんてされた事はない。ここはそんなにフランクな文化のお国柄でもないはずだ。  普通の人はあんまりやらない、普通の人ならしないような事を、あの人は普通にやった。瀬名恭吾とはそういう男だ。  歯がゆいって、言うのだろう。そわそわする。顔が熱い。  そのあとの約数分間、玄関から動けなかった。
/1398ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6496人が本棚に入れています
本棚に追加