瀬名さんのダチ

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 マンションの階段を上りきったところで足を止めた。俺の目が捉えているのは三〇二号室の玄関前。そこをチラチラ窺い見ながら自宅に向かってゆっくり進んだ。  瀬名さんちの前に誰かいる。 「…………」  隣の家の玄関扉に背を預けて立っていたその人。隣人宅に客人が訪ねて来ても俺にはなんの関係もないが、その隣人が自分にとっての恋人であれば多少は気になる。  男の人だ。瀬名さんと同年代くらいだろうか。宅配業者のお兄さんでない事はその様子を見れば明らか。いかにもそこの住人を待ってるっぽい姿勢だし、段ボール箱も何らかの小包も郵便物さえも持っていないし。身形もそんな感じじゃないし。ちょっとイカツめの歌って踊れる男性音楽グループとかにいそう。  白いシャツに薄手の羽織。ラフなジーンズ。足元はスニーカーだが多分かなり上等なやつ。  パッと見の印象はなんかちょっとチャラい。瀬名さんとは違ったタイプだ。ポケットからキーケースを取り出しながらその人の前を通り過ぎ、再びチラリと窺ったところでその人もふいっと顔を上げた。思いきり合ってしまったお互いの目。 「……あの」  どうしようかと迷いつつも結局は声をかけている。  瀬名さんの帰りは今夜も遅い。そのままそこで待っていてもまだまだ戻っては来ないだろう。 「すみません、そこの部屋の人……たぶんまだ帰ってないと思います」  どこもかしこも物騒な世の中だ。おそらく瀬名さんの知り合いだろうが、確信まではできない相手だと在宅か不在かを教えるだけでも慎重になって気を使う。そのため細かい情報は伏せて曖昧にそれとなく告げた。  しばし見合う。こちらからしてみれば相手は見知らぬチャラい男。この人からしてみたって同様に俺は知らない奴だ。  俺の方がよっぽど不審だったかもしれない。声はかけない方が良かっただろうか。そう後悔しかけたところで、この人は口を開いた。 「……もしかしてハルキくん?」 「え?」 「え? 違った?」 「……あの……すみません、どこかで……?」 「あーいやいやゴメンゴメン初対面ですはじめまして」  俺の反応を見るなりこの人はパッと明るく笑いかけてきた。扉から背中を離して体ごと俺と向き合う。懐っこい表情には少しばかり気圧された。 「怪しい者ではありません、って言うのも逆に怪しいだろうけど心配しないで。恭吾の友達の二条です」 「はあ……どうも。赤川です」 「うん。ハルキくん、で合ってるよね?」 「……そうです」 「恭吾から聞いてるよ」  何を。と思ったけどあまり詳しく聞きたくない。  瀬名さんを恭吾と呼んで、俺のことまで知っている。新聞の押し売りでも宗教の勧誘でもないと分かればそれで十分だろう。怪しいけど。 「あいつ何時ごろ戻って来るか聞いてる?」 「遅くなるって事しか……」 「うーん……今ちょうど繁忙期だもんなあの社畜」  家に帰っても仕事をしているような男をこの人は堂々と社畜呼ばわり。それなり以上に親しくなければそんな言い方はしないはず。あの大人にも友達がいたとは。 「瀬名さんに何かご用でも……?」 「用って言うか、俺いまちょっと行くとこなくて。実は奥さんに家追い出されちゃってさ。本気で蹴り出されてきたからスマホも財布も持ってないんだ」  ポケットをパンパンと叩いて一文無ジェスチャーをされた。夫婦喧嘩でもしたのかなんなのか余所のご家庭の事情は知らないし、そもそも俺はこの人に関して一切の情報がないのだが、そうは言っても瀬名さんの友人とはっきり確信してしまった以上は見て見ぬふりをできる訳もない。 「瀬名さん本当に遅いときは余裕で深夜越えますけど……」 「あいつちょっと働きすぎだよね」  そういう事が言いたいのではなく。いや確かにその通りなのだが。 「……もしもよければですけが、瀬名さん帰ってくるまでウチに……」 「いやいやそんな、お構いなく。適当に待ってるから気にしないで」 「けどその格好じゃ……」  追い出されたと言うだけあってまあまあ薄着だ。いつ帰ってくるとも分からない部屋の主を外で待つのに相応しい格好ではない。 「あの人たぶん帰ってくればこっちに顔出すと思うんで……」  言いつつ部屋の鍵を開けた。築年数に見合った音をギギッと小さく立てるドア。敵の敵は味方になる事も時にはあるような世の中ならば、恋人の友人イコール知人と結びつけるのも難しくはない。  自分の中でそう強引に結論付けた。手で示すのは部屋の中だ。たった今知り合いになったばかりの人に顔を向ける。 「どうぞ。上がって待っててください」  ここに越して来たばかりの頃ならあり得ない行動だろう。押しの強い人と毎日顔を合せていたせいで俺の頭もいよいよおかしくなってきた。 「ずっとそこにいたら風邪引いちゃいますよ」 「いや、でも……」 「どうぞ」  もう少しドアを大きく開く。大抵の日本人は最初の数回を遠慮で返すが、押しの強い他人の厚意には逆らえないようにもできている。 「…………じゃあ……ごめん。お言葉に甘えて」  最後まで躊躇っていた大人がそこで折れた。なんのお構いもできない家だが外で待つよりはマシだろう。
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