瀬名さんのダチ

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 そこまでは全部言えなかった。この人にそんな事を言えるはずがないから黙ったまま視線も落とした。ラグの上の指先には、もう少し頼りなく力がこもった。 「…………すまなかった」  沈黙を破ったのは瀬名さんだ。謝るのはこの人じゃない。この人は何も間違ってない。  反論の一つでもすればいいのに。些細な事でいちいちキレるなと責めてくれた方がよっぽどいい。だけど瀬名さんは言い訳もせずに、ただ俺のそばにいる。 「俺が悪かった」 「違いますよ……。分かってんでしょ」  開いていた距離は瀬名さんが埋めた。時にはプライドだって捨てられる男は俺の隣に座り直して、指先に力を込めていたこの手を上から控えめに握りしめた。毛足の短いチープなラグの上であたたかく重ねられている。  ひどい大人だ。なんでそうなんだ。あんたもたまには怒るとかしろよ。こういう事をされてしまうと、俺が余計にガキくさく見える。 「これは俺の問題なんです」 「…………」 「……ごめんなさい」  俺にできない事をこの人はやった。頭にきて当たり散らした。滑稽だし、恥ずかしいし。ガキくさいしめんどくさいし。  いつでも真っ直ぐな感情だけを向けてくれるこの人に、俺は何も返せない。付き合い始める前には想像もしていなかったような恐怖が今の俺の中にはある。  ラグをじっと見つめる事しかすでにできなくなっていた。上から重なっていたこの人の手には、ぎゅっと力がこもったのを感じた。 「これは俺達の問題だ」  俺の手を強く握りしめ、その一点だけは言い直される。上辺だけの分かったつもりなんかじゃない。この人はちゃんと聴いてくれる。理解しようとしてくれる。 「すまない。無神経だった」  瀬名さんはこういう人だ。自分が正しいと主張する事ならいくらでもできるだろうに、この人は俺を否定しない。だからこっちが困ることになる。  今までだって何度も思った。この人が心底嫌な野郎で最低最悪なクズだったなら、俺だってこんなバカみたいにいちいち悩まずに済んだのに。  瀬名さんの手が俺の肩に伸びてきても、そのままゆっくり抱き寄せられても、拒むほどの元気は残っていないし怒りもなんだか冷めてしまった。  仕方がないからおとなしくしていた。瀬名さんも黙っていた。この人に抱きしめられる事にもずいぶん慣れてしまったと、場違いな実感をする羽目になってうっかりすると泣きそうだった。  しばらくはお互い無言のまま、しかし瀬名さんの腕は離れない。俺を抱きしめる力加減が徐々に強くなるのが分かって、俯かせていた顔を上げたが瀬名さんと目は合わなかった。  その顔は俺の肩に埋まる。それでまたぎゅっと、強く抱かれた。 「許してほしい」  たぶん、胸の奥の方。うずくような、そんな感覚。  ここで何かを言えるほど、俺は気の利いた人間じゃない。もしも立場が逆だったとして、瀬名さんならば俺に言葉をかけてくれたかもしれない。だけどあいにく返事を求められているのは俺だから、イエスかノーで答える代わりにできたのは抱きしめ返すことだけ。  そっと背中に腕を回したらこの人もそこで頭を上げた。その時の顔を見せられて、余計に何も言い出せなくなる。  なんでこの人、こんなガキ相手に。ここまで必死な顔をするんだろう。 「遥希……」  喧嘩したかったわけではない。気まずくなりたいわけでもない。この大人にこんな顔をさせたかったわけじゃない。  俺の引っ込みがつかなくなる前にこの人は頭を下げに来た。そんな大人に体重を預けて自分から抱きつきにいく。いつもに比べればだいぶ控えめに、それでもこの人は俺を受け止めた。 「……ちょっとだけ、こうしててください。そしたら全部許します」  この人じゃなかったらこうはなってない。今さらもう後には引けない。  こういう関係になる前に、夜の街中で何度も手を繋がれた。あの時の俺はそれを弾かなかった。今の俺ならきっと弾く。水族館の水槽の前で手を繋いでいられたのは、暗い館内にいる人達の目は魚に向いていると知っていたから。  いつの間にかこんな事になっていた。この人とダメになるのが怖い。壊れるくらいなら隠しておきたい。  失うのが怖いと本気で思うほど、大事な人になってしまった。
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