瀬名さんのダチ

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***  こうしてて。そう言ったのは俺だった。だけど広くはない部屋の中でいつまでも抱き合っているのは変だ。徐々にしつこくなってくる瀬名さんを半ば無理やり引きはがし、込み上げてくる羞恥心から逃げるようにキッチンへ駆け込んだ。  ドリップバッグの上からちびちび熱湯を注ぎながら精神統一する羽目になるとは。無駄に丁寧にコーヒーをいれてきた。この人の目の前にマグカップを置いて、しかしそこでようやく気づく。おそらく空腹だろう人にブラックコーヒーはちょっと良くない。 「さっきは追い出しちゃったし、腹減ってます?」 「大丈夫だ」 「冷蔵庫に二条さんの南蛮づ…」 「いらない」  拒否が激しい。またしても最後まで言わせてもらえなかった。 「……同級生が相手だとあなたでもあんな感じになるんですね」 「あんな?」 「すげえ冷たかったので」 「……あの夫婦の喧嘩に巻き込まれるとロクなことにならないからな」  ミルクを持ってくる前に瀬名さんは黒い液体に口を付けていた。空腹時のカフェインだろうとこの人は全然気にしない。 「こういうこと前にも?」 「しょっちゅうだ。今年に入ってからはずっと平和だったが油断した途端にこうなる」 「二条さんの奥さんってどんな人なんです?」  飲食物に対しては取り立てて気を使わない男だが、俺が何気なく聞いたそれにはあからさまに表情を変えた。  なんと言うか、げっそりしている。一瞬で三歳ほど老けた気もする。何かまずいことでも聞いたか。 「あの……」  一気にやつれた瀬名さんに声をかけようとしたその時、ピンポンと鳴った高い音に俺達の注意は奪われた。発信源はウチじゃない。隣の部屋のインターフォンだ。  隣の部屋の住人である瀬名さんはあいにくここにいる。こんな遅くに宅急便が来ることはまずないだろうが、うちの玄関の方を見ている瀬名さんの顔面は死んでいる。外の様子が気になるようだ。緊張したように窺っているからつられて俺まで息をひそめた。  誰かが訪ねてきたらしき隣室はしばし無音。少し間を置いてもう一度ピンポン。同じことをさらにもう二回繰り返し、最終的にはガンガンバンバンと玄関をぶったたく騒音に変わった。  ビクッとする俺。今にも頭を抱えだしそうな瀬名さん。  出てこい、とかなんとか喚く、女の声が聞こえるような。 「……来やがった」 「え?」 「ちょっと行ってくる。お前はここにいろ」  それだけ言い残して瀬名さんは一人部屋を出ていった。  が、気になる。数秒間だけ迷ったのちに、すぐさま好奇心に負けて俺もすくっと腰を上げた。
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