瀬名さんのダチ

10/10
前へ
/1406ページ
次へ
 玄関のドアをそーっと開ける。廊下は何やら騒がしい。隣の三〇二号室の前は大人三人で混み合っていた。 「あはははは、陽子ちゃんいつもよく俺の居場所分かるよねぇー」 「あんたが来るとこなんかここしかないでしょ。いちいち手間かけさせんじゃないよ」  二条さんは瀬名さんちのドアからヘラヘラ笑って顔を出している。それを睨みつけているのは見知らぬ女性。そんな二人から一歩引いた壁際には、何やらチマッと小さくなりながら無言で立ち尽くす瀬名さんが。  インターフォンを鳴らしたのはどう考えてもあの女性だろう。陽子ちゃんと呼ばれていた。ならばおそらく奥さんだ。奥さんらしきその人物は二条さんの胸ぐらに両手を伸ばし、体格差をものともせずにガッと勢いよく掴みかかった。 「言っとくけど話はまだ済んでないからね。ここに逃げ込めば許されるとでも思ってんなら考え改めな。なんであんな買い物したのかきっちり説明してもらうから」  間違いなく奥さんだ。十五万円の鍋の件はまだ許されていないようだ。  玄関の内側という安全地帯から引きずり出された二条さんは、ヘラヘラしているように見えるがどことなく笑顔が引きつっている。 「ほら帰るよ。毎回毎回瀬名くんに迷惑かけるんじゃないの」 「いやそもそも俺をウチから蹴り出したの陽子ちゃ…」 「は?」 「すみません帰ります」  夫婦の力関係は一目瞭然。飼い犬の首輪でも引っ掴むように二条さんの襟元を捕らえつつ、その女性は小さくなっている瀬名さんに目を向けた。 「瀬名くんごめんね。いつもウチのが」 「いえ……どうも……。お元気そうで」 「うん、おかげさまで。ねえところでさ」  見上げているのは奥さんの方で見上げられているのが瀬名さんなのに、どうにも立場は真逆に見える。気まずそうにやや視線を逸らす大の男をガン見しながら、その人は淡々と言葉を発した。 「隆仁のことは匿わないでって前に言わなかったっけ?」  ピシッと空気が凍り付く。瀬名さんの表情が死滅した。今日にも世界が終わりそうな絶望顔になっている。 「……すみません。成り行きで」 「なに成り行きって」 「申し訳ない……」  なんだか聞いたことのあるやり取りだ。 「…………次からは即刻追い返します」 「そうして」  妙にかしこまっている瀬名さんはかなりのレアだし非常に見物だがからかえるような状況ではなさそう。何か弱みでも握られてんのか。  顔面蒼白の瀬名さんに見送られつつ、奥さんに捕まった二条さんは情けない状態になっていた。目が合うと半笑いでひらひらと手を振ってくる。そんな二条さんに睨みを利かせ、その人は俺にも声をかけた。 「お騒がせしてごめんなさいね」 「あ、いえ……」  軽く頭を下げられたので俺も一応ペコッとしておく。二人が廊下から姿を消すとすぐに静けさが戻って来た。  取り残された俺と瀬名さん。俺はまあまあ呆然としているが瀬名さんは更に深刻だ。気力も活力も丸ごと搾り取られた様子でとぼとぼと俺の方に歩いてくる。 「……大丈夫ですか?」 「そう見えるか」  見えません。 「今の人が二条さんの……」 「ああ」 「瀬名さんもお知り合いなんですよね……?」  瀬名さんのツラが本気でひどい。どんなに疲れて帰って来てもため息なんてつかない大人が深々と重く息を吐いた。 「……元上司だ」 「え?」 「新人時代の上司だった」 「あぁ……」  だからあんなに低姿勢だったのか。  二人で俺の部屋に戻っても瀬名さんは消沈したまま。普段の感じとは全然違う。怯えきって縮こまってしっぽを丸める子犬のよう。 「二条さんのこと追い出したがってた理由が分かりました」 「どうせとばっちりを食うのは俺だ」  急にジメッといじけだす。よっぽど怖いんだろうな、あの人が。新人時代の瀬名さんの身に何が起こったか知らないけれど。 「お前もあの夫婦には二度と関わるな。万が一またあいつが来たとしても次は部屋に入れなくていい」 「どうしよっかな」 「やめろ」 「二条さんのメシすげえ美味かったし」 「やめろ。頼むから。やめてくれ」  必死な様子が伝わってくる。瀬名さんの思わぬ弱点を知った。
/1406ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6502人が本棚に入れています
本棚に追加