事故かもしれない物件

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***  どうせ作り話だろう。無駄な演技力を持った下心満載のゲス野郎が俺を怖がらせて面白がっただけのこと。  ほんの一時はそう思えた。けれど瀬名さんが自宅に帰ったら室内がいつもより静かに感じた。一定の速度でカチカチ鳴り響く秒針の音だけが耳に入ってくる。 「…………」  耐え切れない。時計が怖い。一秒ごとの無機質なカチコチに追い立てられるような気分だった。  とうとうじっとしていられなくなって逃げ込んだのは狭い風呂場。せかせかと服を脱ぎ捨て熱めのシャワーを頭からかぶった。サッパリ洗い流してしまえばこの恐怖心も消えるかもしれない。  しかしシャンプーで頭をわしゃわしゃ泡立てていると今度は背後がなんとなくヒヤリと。浴室暖房なんてついていないから冬場はいつだって背中が寒いが今夜は異様に気になってくる。  それでも無理やり両目をつぶって頭を泡だらけにしていたものの、ふとした瞬間、脳裏によぎる。背後に立つ影の映像が。背筋にゾッと悪寒が走ってパチリと目を開け振り返った。  何もいない。そりゃそうだ。昨日まで普通に生活してたんだ。  しかしその後はほんの三秒も目をつぶっていられなくなった。泡が染みる事なんかよりも目の前が暗くなる方が怖い。血走った目の女に遭遇する代わりに俺の目が血走りそうだった。  慌ただしくシャワーを終えた後も恐怖はずっと付きまとう。髪を乾かしていてもスマホをいじり出しても何をやっていても落ち着かない。シンと静まり返ったこの部屋が心底不気味でならなかった。  テレビくらい買っておけばよかった。思ったところでそんなのは今さら。どちらにしても無駄な出費は増やせないのだからどうにもならない。  仕方がないから布団にもぐり込んだ。どう頑張っても落ち着かなかった。右を向けば左側が怖い。左を向けば右側が怖い。しかし仰向けになったらなったで天井が魔界の入り口に見えてくる。壁も天井も何もないただの空間でさえも、恐怖のキャンバスが至る所に。  ダメだ俺。もう意味わかんない。恐怖のキャンバスってなんだよ、どうした。  寝よう。寝ちまえばこっちのもんだ。仰向けのまま布団をかぶってぎゅっと無理やり視界を閉ざした。  目の前は完全な暗闇になる。案の定ホラー系の妄想劇場がまぶたの裏で始まった。終わることなく脳内で勝手に流され続ける恐怖映像。布団の上に覆いかぶさる、ボヤッとした黒い影。  パチッと目を開けた。バッと顔を出した。布団もバサッと引っぺがしたが上には何もいなかった。  大丈夫だ。これはただの妄想だ。お化けなんてそんな非科学的かつ非現実的な空想上のバカげたものが存在して堪るか。  なんて自分に言い聞かせたけど、枕横のぬいぐるみを二体とも引っ掴んでもふっと抱きかかえた。こいつらを道づれにしてもう一度布団にもぐりこむ。  モッフリとクッタリな癒しの手触りにほっとできたのは最初の一秒。クマとカワウソに抱きつきながら必死に目をつぶってみるも、タンッ、と音がして肩が揺れる。  安っぽい金属を弾いたような。その発信源は流し台だ。  ちゃんと分かってる。いつもの事だ。蛇口の水滴だと頭ではきちんと理解しているはずなのに、一回気になりだしてしまうと普段の些細な物音ごときに全神経が持っていかれる。 「…………」  ムリ。もうヤダ。怖くて眠れない。このままじゃ朝には廃人になってる。  起き上がって電気を付けた。恥がどうとか言っていられる場合ではなかった。ベッドの上で正座になって頭からすっぽり布団をかぶりつつ壁の向こうの瀬名さんにライン。  起きてますか。それだけ一文。起きてなくっても今すぐ起きろ。  既読付け既読付け既読付け既読付け。頼むから返事くれ、なんでもいいから。  願いは通じた。のかどうかは知らないけれど視線の先ではパッと既読表示が。スマホにすがり付いて待機していたら返信ではなく電話で返ってきた。  出る。そりゃ出る。秒で出た。飛びついた。彼氏からの着信にここまで喜ぶのきっと俺くらい。 『どうした』  耳に当てたスマホの向こうから聞こえてきた第一声。  あったかい声に泣きそうになる。ホットココアよりホットレモネードより数百倍はじんわりきてる。左腕ではクマとカワウソをぎゅうぎゅうに抱き潰していた。 「……すみません。起こしましたか」 『いいや。どうかしたか』 「…………」 『遥希?』  帰らないでくださいと言えなかったばかりに俺は現在こうなっている訳で。この人に対するつまらない見栄とクソみてえにしょうもない意地は結構な強さで定着してしまっているのであって。 『どうした』  もう一回聞かれて顔がゆがんだ。もしも目の前に鏡があったら泣きそうな自分が写るはず。 「…………今日だけそっちで寝てもいいですか」  恥も外聞もへったくれもない。ほんとにそんなこと言ってる場合じゃない。  こんなに怖いことってあるか。今まで俺よくここで寝てたな。
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