事故かもしれない物件

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***  薄ぼんやりした明るさを感じた。ふわふわした感覚だった。どことなくくすぐったくもあった。  ゆっくりと髪を梳かれる。甘やかすように撫でられていた。それに気づいたのはゆったり目を開け、瀬名さんの顔を間近に見たから。 「…………」 「おはよう」 「……おはようございます」  おだやかに、いくらか細められたその目。爽やかな朝の空気が似合う見事なまでの綺麗な微笑み。  不覚にも見惚れてボケッとしていると額にはキスが降ってきた。少女漫画のヒロインに惚れられる男性キャラクターを具現化したらきっと八割方は瀬名恭吾になる。  朝っぱらから恥ずかしい人だ。その顔を無言でじっと見上げた。するとこの男前は心得たように、口にも同じことをしてきた。  軽くついばみ、唇をこするようにして撫でながらそっと離れていく。それをもう一度時間をかけてしっとりと繰り返した。二度目はちゅっと音を立て、最後は頬に口づけてから、近い距離で俺を見下ろす。 「そろそろ起きた方がいい」 「……はい」  壁にかかった時計をチラ見。六時半を回った頃だ。大学に行くための起床時間としては遅くもなく、早くもなく。  瀬名さんがシーツから手を離すと沈んでいたマットレスがゆるやかに元に戻った。俺もその場で体を起こしたが首から上はジワジワと熱い。 「なんか……」 「ああ」 「朝メシとか、作ったら食いますか」 「いや、いい。すぐに出る」  人様のお宅で堂々と寝過ごした俺とは違って瀬名さんはすでにスーツ。身支度も何もかもきっちり済ませていた。ネクタイも締めているしジャケットも着ているし、よく見れば机の前の椅子には黒いコートもかけてある。出掛ける準備は万端だ。 「早いんですね……」 「つまらねえ会議だ」  会議。現実的な単語を聞いて、ぼやけた頭がようやく目覚める。 「……ごめんなさい」  そうだった。この人は働く大人だ。  学生ごときが夜中に叩き起こしたうえにベッドを占領していい相手じゃない。最近は忙しいのもいくらか落ち着いてきたようだったからつい甘えきってしまった。  大事な睡眠の邪魔をした。寝床にはぬいぐるみまで連れ込んだ。挙げ句に俺はグースカ寝コケ、優しく起こされてやっとこ目覚めた。  ちゃんとしてない十八の男に瀬名さんは文句の一つも垂れない。再びその場で腰を屈め、またもやそっと口づけられた。  シーツの上で手が重なる。キスしながらやんわり握られ、手の中に何か、落とされた。  甘ったるく唇が離れ、最初に見たのは瀬名さんの顔。自然と視線は下に向く。  自分の手のひら。銀色のそれ。一目で分かる。鍵だ。 「出掛ける時閉めてってくれるか」 「あ……はい。ポストにでも入れておけば……?」 「やるよ。これはお前のだ」  小さな金属を握らせて、俺の手ごと包み込んでくる。頬に小さくキスで触れてから、もう一度唇が重なった。 「いつでも好きな時に来い。ヤモリが怖けりゃここで寝ればいい」  キスの直後にそう言われたけど俺の反応速度は鈍い。  掛けてあったコートを手に取った瀬名さんはすぐに出ていった。俺の元に残されたのは、唇の感触と手の中の銀色。  玄関ではドアの開閉音が。パタンと静かに外から閉まった。  行っちゃった。行ってらっしゃいもまともに言ってない。寝室の向こうをぼんやり眺めつつ、指先でふにっと唇に触れた。  迂闊にも爆睡してしまったせいで弁当を作る時間もなかった。お化けを怖がって避難してきたガキを静かにゆっくり寝かせてくれた。窓の外でスズメがチュンチュン可愛く鳴くのを聞きながら、誘われるように視線は下がり、手の中にある鍵を見つめる。  合鍵か。そうか。うん、そうか。  実感が湧きそうで全然湧かない。起き上がったばかりだけれどうつ伏せにぼふっと倒れ込んだ。
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