事故かもしれない物件

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 なんだあのイケメン無敵かよ。かっこよすぎるだろ朝からやめろよ。  あれは本当に日本人なのか。あんな男がこんな国に生息していていいはずがない。  顔面を枕にうずめていると今度はふわっといい匂いがしてくる。瀬名さんはいい匂いがすると思っていたが枕までいい匂いってどういうことだ。三十過ぎのおっさんの枕がこんなにいい匂いなのはもはや事件だ。しかもあの人は喫煙者だ。  白い枕をたまらず抱きしめた。瀬名さんと夕べここで寝た。  またここで寝ていいらしい。合鍵までもらった。そわそわする。  俺の物になった鍵を握りしめ、枕をぎゅうっと両腕に抱いた。 「そういうのは夕べ俺にやってほしかった」 「ッ……!」  ビクッとした勢いで跳ね起きた。振り返る。引き戸の影から覗くその顔。  いつの間に。どっから見てた。気配消しながら戻って来んなよ。この人の部屋だから文句も言えない。  気まずさ満点で枕を押しのけて悪足掻きしてみるもどうせ無駄。ベッドのそばまで来た瀬名さんは見るからに上機嫌だ。 「一つ言い忘れてた」 「……なんです」 「今日は晩飯頼んでもいいか」  身構えていた俺に瀬名さんが言ったのは予想から外れたお願いだった。キョトンとしながらその顔を見上げる。 「そんなに遅くはならないと思う」 「あ、はい」 「一応夕方ごろに連絡する」 「はい……」  平日の夜に瀬名さんとゆっくりメシを食えるのは久々だ。何を作ろう。考えようとしたら、その前にこの人が一言。 「チーズドリアがいい」  チーズドリアと瀬名さんの組み合わせはオムライスと同じくらい似合わない。 「……時々可愛い子ぶるのホントなんなんですか」 「可愛い子ぶってりゃクマ雄とウソ子のポジションを奪えるかもしれない」  クマとカワウソは行儀よく壁際に。夕べはずっと壁の方を向いてこいつらにしがみついていた。それが通常の状態だと勘違いされてしまうのは男の沽券というものに関わる。 「普段は抱いてませんってば」 「なら次は俺に抱きついて寝ろ」  そしてこの人は沽券を蹴り砕く。俺のプライドはもうボロボロだ。  迷走も多い年頃の男のプライドを粉砕した無情な大人は当然の顔をして俺にキスする。  朝からこれで何度目だ。やわらかい触れ合いを受け入れれば、大きな手のひらが左の頬をやんわりと包み込んでくる。撫でられるから思わずスリッと、こすり付けるようにその手に懐いた。  もう少し早く起きればよかった。出勤前の社会人のキスは夕べよりもずっとシンプルだ。  指先で頬を撫でられる。そうしながらこの人の唇が離れた。間近から見るその顔も、悔しいくらいに男前だ。 「行ってくる」 「行ってらっしゃい……」  今度こそちゃんと言えた。大きい背中を見送ってから少しして開閉音が聞こえた。さっきの失態が響いているからちょっと疑ってしばらく様子見。  どうやら今度こそ本当に行っちゃった。朝のキスはさっきので最後だった。  何度もしつこく合鍵を見下ろす。見ているうちに体が傾き、もう一回枕に倒れ込んだ。相変わらずのいい匂い。柔軟剤かな。シャンプーとかかも。ふわっと鼻腔をくすぐられながら、握りしめた手の中の鍵。  このままこうしていたら二度寝しそう。包まれるようなこの感覚にはヤバめの中毒性がある。  クセになったらどうしよう。あの人の匂いは、とても落ち着く。
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