瀬名って名前のクズ教官

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 オープンな変質者のそばにいたら何をされるか分からない。  だから逃げた。さっさと逃げた。俺は武士でも剣士でもないからなんら恥じずに敵に背を向けた。  ところが部屋から逃亡する前にガッと腕を掴まれている。人の前に回り込んで立ちはだかってくる邪魔な壁。 「行くなって」 「どけよウゼエな」 「いいから落ち着け」  落ち着いてられないからとりあえず睨みつけておく。 「あなたといると俺の時間は無駄になってばっかりです」 「お前といると俺の下半身は無駄に元気にさせられるばかりだ」 「…………」 「すまん。悪かった。今のは俺が悪い。反省するからそんな目で見るな」  まともじゃない。羞恥心ってもんがないのか。謝るくらいなら言わなきゃいいのに。  百八十五センチちょいの壁を押しのけて部屋から踏み出た。普段の動作は静かなこの人も後ろからドカドカ付いてくる。 「待てっての。どこ行く気だ」 「うるさいな、風呂入って来るだけですよ」 「どっちで」 「ウチで」 「今夜もこっちの使えばいい」  靴を履く寸前で止まった。後ろから肩を引かれて瀬名さんの顔を振り返る。  夕べはここで風呂を借りた。結果どうなったか。後悔だ。 「……結構です。自分ちの使います」  俺が断れば瀬名さんは分かりやすくやれやれって顔。 「心配しなくても覗かねえよ」 「当然だよ。最低限のマナーだよ」  そんな事は言われるまでボヤッと程度にも考えていなかった。どうしてそう余計な一言を。  ここに入り浸るようになった原因は思い出すまでもなくこの男だが、ここの風呂を使う事になったのも諸悪の根源はやはりこの男。  何日経ってもシャワー中の背後が怖い事に変わりはなかった。シャンプーの間も目を閉じていると後ろに何かいる気分になってくる。そのため左右の眼球は日々白い泡に攻撃され続けていた。  そんな話を恨みがましく瀬名さんにしてやったのは昨日。だったらうちの風呂を使えばいい。この人から返された提案をついつい受け入れてしまったのも昨日だ。  怖くて不気味な部屋の風呂か、変な男がいる部屋の風呂か。究極の二択だったが夕べの俺は後者を取った。  枕からいい匂いがしてくる人の風呂場は清潔感百パーセントで、綺麗でなおかつ安全な風呂場を提供されたのはありがたかったが、自分の考えが足りていなかった事に気づいてしまうのも早かった。 「風呂のためだけに自分ち帰ってまた戻って来るのは手間でしかねえだろ」 「いいんですよ銭湯気分だとでも思えば」 「あの狭いバスタブで銭湯気分は味わえない」 「いいんです」 「よくねえよ。うちの風呂の何が不満だ」  食い下がらなくていいところほど食い下がってくるのがこの大人。それくらい身に染みて分かっている。 「……別に」 「不満があるなら言え。直す」  直すんだ。わざわざ俺のために直しちゃうんだ。悪い男なんだかいい人なんだか本当によく分からない。  しかしそもそもここの風呂場で改善すべき箇所は見つからないだろう。狭いのはうちと同じだけれど手入れの行き届いた浴室と脱衣所。  住んでいる部屋には少なからずその人の性格が表れるもので、男の一人暮らしにもかかわらず水回りがあそこまで綺麗なのは住人が丁寧で細やかだからだ。どこもかしこも完璧だ。
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