瀬名って名前のクズ教官

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 夕べのことを振り返ってしまうと溜め息しか出てこなくなる。  瀬名さん宅の浴室に初めて足を踏み入れた俺の感想。超キレイ、何ここ。別のマンションだろ。俺も見習おう。ピカピカじゃんヤバ。どうやってこれ掃除してんだ。お掃除屋さんでも雇ってんのかな。  我ながら実に頭の悪い感想でしかなかったと思うが本当に感動ものだった。鏡のちょっとした水垢すらなかった。瀬名さんはおそらく頑固な石灰汚れになる前に磨き上げてしまう几帳面タイプだ。  人様のおうちの整った環境に警戒はすっかり解けていた。そうなったのがきっと良くなかった。  しばらく振りにしっかり目をつぶりながらシャンプーをしていたその最中、ふわっと鼻を掠めた香り。知ってる匂い。いい匂いだった。それに気づいた。気づいて、思った。ああ、駄目だマズい。失敗したって。  綺麗でピカピカなこの空間は隣に住んでる恋人の入浴スペースだ。そしてこれはいつもあの人が使っているシャンプーだ。急にそんな実感がわいてきて、そのせいでいい匂いはより鮮明になってしまった。  置いてあるシャンプーを借りて使って瀬名さんと同じ匂いになって少女漫画に出てくる女子みたいなふわふわラテ系の甘ったるい生き物に万が一にでも成り下がった自分を想像するとクソさむい、凍える。  そういう訳だから断固拒否する。善意による瀬名さんの提案をはねのけるのは凍死しないための措置だ。措置とはつまり事前の対策だ。夕べ実際にふわふわラテ系になった訳では断じてない。  綺麗で安全なあの空間を嫌がる俺の事情を瀬名さんは知らない。こんなバカみたいな塩辛い葛藤を想像もしていないだろう男は、それこそ純粋な厚意でもって自宅の風呂場を提供しようとしてくる。  今もまた何かを考え込んで眉間を厳しく寄せていた。すると何事かを思いついたようでパッとひらめいたような顔をした。 「なるほど。分かった。入浴剤だろ」  違ぇよ。クイズとかやってねえよ。 「少し待てるなら今すぐ買ってくる」 「いりません」 「粉末タイプ、固形タイプ、炭酸強め、ポカポカ持続系、その他色々、どれがいい。肩こり腰痛に悩んでいるなら薬用系がおすすめだ」 「だから違いますってば、悩んでねえし。風呂くらいは自分ちでゆっくり入りたいだけですよ」 「自分ちの風呂じゃ怖くてゆっくりできねえって話だったんじゃねえのか」 「…………」 「お前のそれは自滅と言う」 「そんな解説求めてません」  墓穴を掘った人間の傷口に塩を塗り込もうとするな。 「もういいから余計な口出ししないでください」 「頑固な奴だな」 「悪かったな」  脱ぎ履きしやすくて安い以外はこれと言ってメリットもないスリッポンに足を突っ込んだ。  今度は瀬名さんも引き止めてこない。腕を組んで廊下に立ったまま俺の行動を見守っている。 「まあ……そこまで言うなら止めはしねえよ。ただな、あれだ。気を付けろ」 「は?」 「水場には特に寄って来やすいって昔からよく言うだろ」  ガチャッとドアノブを握ったこの手がそこでピタリと動きを止めた。全身の筋肉が急に強張る。  動きが悪くなった自分の首をぐぐっと後ろへ動かして、瀬名さんをそろりと振り返った。目に入ったのはこの人の真顔。 「……え?」 「頭を洗っている最中にだるまさんがころんだと口に出したり頭の中で考えたりするのはやめておけ」 「だ、だるま……?」 「楽しい事してると思って周りに集まって来るらしい」  なんだそれめちゃくちゃ怖い。 「悪いことは言わねえからだるまさんがころんだは思い出すな。ガキの頃に刷り込まれたはずのだるまさんがころんだという概念そのものを記憶から消し去れ」 「無茶な……」 「ならとにかく思い浮かべるな。絶対に思い出すなよ」 「…………」 「大丈夫だ、ただ黙ってるのは何も難しい事じゃねえ。あとはたとえ何があっても心の中で唱えないようにすればいいだけだ。だるまさんがころんだ、と」  俺の頭の中はすでにだるまさんがころんだでいっぱいだ。 「俺はここでお前の無事を祈って待ってる」 「無事って……」 「達者でな」  達者って。 「ああそれと、できる限り鏡と排水溝にも近付かない方がいいと思う。よくあるだろ。そういうの」 「…………」  鬼畜なのかこの男は。精神攻撃が異常にエグい。
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