瀬名って名前のクズ教官

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***  部屋に戻ったら瀬名さんがいなかった。窓に目をやるとカーテンが開いている。  室内が明るいから暗い外は余計に見えにくいけど、シルエットはぼんやり分かる。瀬名さんの所在はベランダだ。  掃き出し窓をカラカラ鳴らせた。手摺りに片腕だけ乗せながら、瀬名さんがこっちを振り返る。  その口元にはまだ長いタバコが。それを右手に持ち替えて、サンダルがないから出るに出られない俺にそこから声をかけてくる。 「ゆっくりできたか」 「できませんでしたよアンタのせいで」  だるまさんがころんだのフレーズを考えないようにしようとすればする程だるまのシルエットが浮かんできてしまって風呂場で泣き叫びそうになった。名人級のだるま職人だってあんなにだるまの事は考えない。  人を恐怖のどん底に突き落としておいて自分はのんびりスパスパと。一服している大人の横顔をここからジトッと眺めていたら、その視線が再びこっちに。 「中入ってろ。風邪ひくぞ」 「…………」  そう言えばこの人がタバコ吸ってるとこ、初めて見た。  以前はいつも仕切り越しだったし、俺がこの部屋に入り浸っている間は瀬名さんが吸おうとしないし。このまま窓を閉めずにいれば、きっとこの人は火を消すだろう。  手摺りの上には小さな灰皿。長さ的に煙草はまだ吸い始めたばかりだ。でもやはりこの人は消そうとした。それで咄嗟に、外に出た。  足の裏には冷たい硬さ。こっちに顔を向けたこの人の、腕を掴んだ。消すのを、止めた。  煙草の先からはいまだユラユラ白い煙が舞っている。瀬名さんと目を合わせたままゆっくりとその腕を放した。  先に視線を外したのは俺。そのままこの人の隣に立った。  小さな公園があるくらいで特に眺めも良くない景色に俺もこの人も黙って目をやる。消すのを俺が止めたから、中指と人差し指の間に煙草を挟んだ大きなその手を、この人はまた口元へと静かにそっと持っていった。  煙のにおいだ。そうやって吸うんだ。赤っぽいオレンジ色が先端に灯るとその都度少しずつ、細かい葉っぱがチリチリ色を変えて灰になっていくのが見えた。  室内の光がささやかに届いてくるだけの明度だ。薄暗い中でその手元を隣から盗み見ている。  爪は短く切りそろえられ、いつもきちんと整えられて。  柔らかみはないが綺麗な手。骨ばった、長い指。その指で細い煙草をまっすぐに支えたまま、ゆっくりと再び、口元に。 「…………」  ぎこちなく、視線を落とした。  ただ単に煙草を吸っているだけ。それだけでしかないはずなのに、なんだか変な気分になるからこっそり見るのはやめにした。  大人の男だ。煙草だって似合う。そんな人の右側に、トンっと寄りかかって体重を預けた。  喫煙中には邪魔でしかないだろう俺のこの行動にさえ、瀬名さんは一つも文句を言わない。 「どうした」 「…………そのタバコは俺のせいですか」  大人はいつ、煙草を吸うか。どういうときに吸いたくなるか。  ダメって言ったら必ずやめるから、いいって言うまでしないと思う。散々待たせたのにまだ待たせてる。この人のしたい事を、俺はずっとさせないでいる。  質問の意図は察しただろうが瀬名さんは何も言わなかった。黙ったまま煙草を口にして、その煙が吐き出される前に、突然ふにっと、キスされた。  思わず眉間に力が入る。口の中の、おかしな風味。瀬名さんが唇を離しても、知らないにおいだけは残った。 「…………なんか煙い」 「煙草はハタチになってからにしとけ」 「あんたは今俺に何をしましたか」  笑って返してくる大人に反省の色は全くない。こんな形で煙草の味の初体験なんてしたくなかった。
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