瀬名って名前のクズ教官

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 隣ではこの人がもう一度深めに吸っている。そして今度こそ灰皿の上に煙草の先をジッと押し付けた。  燃え損ねた葉っぱが擦れて最後の煙をくすぶらせ、オレンジ色の火を消すと同時に、唇はまたもや重なっていた。  舌先をねっとり絡めながら、煙のにおいを移される。下唇を甘噛みすると満足したように離れていった。  ほんの数秒足らずの後に残された微妙な味と香り。苦いと言うか、なんと言うのか。変な感じだ。モワッとする。  いつものキスとは少なくとも違った。だからついつい眉間も寄っている。 「……これはあんまり好きじゃないです」  鼻から抜けていくにおいはなんだかまだやっぱり変な感じ。俺に顔をしかめさせた張本人は楽しそう。 「キスが? タバコが?」 「タバコが」 「キスは」  そういうの普通に聞いてくるし。俺はそれに慣れちゃってるし。 「…………好き」  答えたら、直後にされる。今度は重なるだけのやつ。俺が嫌なことはしてこないけど好きなことは沢山してくる。  スっと、やわらかく唇がこすれた。それで終わりかと思ったら、最後にもう一度押し付けるように。  目の前にある瀬名さんの顔は、いくら目を凝らしてみても楽しそうにしか見えない。 「これがなんだって?」 「だから好きって言ってるじゃないですか」  こっちもだんだん投げやりになってくる。吐き捨てた俺を見て笑った男は手すりの上から灰皿を下ろした。  ベランダにちょこんと置いてあるミニテーブルに移動させられた小さな灰皿。なんとはなしにそこへ目を落とせば吸い殻はどうやら二本あった。たった今消したばかりの一本と、俺が戻って来る前にも一本吸っていたようだ。そっちはだいぶ短くなっている。この二本の原因が俺なのか、この人は結局答えなかった。  答えなかった事が答えだ。キスは許された、証だろうか。  まともじゃない大人のくせに嫌な男にはなりきってくれない。汚した灰皿はこのまま放置せずすぐに綺麗にするのだろう。浴室の鏡だってピカピカなくらいだし。 「中戻るぞ。ほんとに風邪ひくだろ、そんな薄着で」  あれもこれも全部そつがない。風呂から出てきたばかりの俺の体調を気づかうような男だ。そうして中に入るよう促されたが、俺は足を止めたまま。  わざわざ外履きが置いてあるのだからベランダとは基本的に屋外。屋外とは常に吹きさらしの環境。このベランダも例外ではない。一方でここの部屋の中は、めちゃくちゃ綺麗でどこも清潔で床には塵一つ落ちていない。 「……あのですね、もう一個ごめんなさい」 「うん?」 「裸足で出ちゃった」  瀬名さんの視線が俺の足下にふいっと落ちた。  サンダルは瀬名さんが履いている一組のみ。俺の足裏は固くてヒンヤリ。綺麗にしてあってもやっぱり外だから心なしかシャリシャリしている。 「……まあそうなるよな」  すんません。 「冷たくねえのか?」 「かなり冷たいです」 「何してんだバカ。姫抱っこで風呂場直行の刑にしてやる」 「うわ。屈辱で死ぬかも」 「殺さねえようにそっと運ぶ」 「それ余計殺しにきてますね」  姫扱いなんて死罪よりキツい。米俵みたいに担がれる方がまだ数千倍くらいはマシだ。  けれども有言実行な男は俺の腰を当然のように抱いてくる。左手は膝の裏に持っていかれそうになって慌てて止めた。 「え、待って、ホントに姫抱き?」 「風呂場まで丁重にお連れするから安心して身を委ねろ」 「超ヤダ」 「お前が足を洗ってる間は従者のように後ろに控えつつだるまさんがころんだを楽しそうに連呼しておく」 「やめて色々」  陰湿だ。
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