にゃーにゃーにゃー

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「こんなので本当によかったのか?」 「これがいいんです。せっかく貰ったのに使えないんじゃもったいないなってずっと思ってたんで」  誕生日プレゼントは何がいいかと二週間前に聞かれた時に、何もいらないから万年筆の使い方を教えてほしいと頼んだ。  前に瀬名さんからもらったやつ。この人が出張から帰ったあの時、クマと一緒に渡された。お菓子やなんかにさり気なく紛れ込んでいた上等そうなお土産の一つだ。  黒い箱だってまだ取ってある。  でもその中身を日常使いするとなると俺には少々ハードルが高い。  放置しておくとインクが乾いて書けなくなる場合もあるらしい。  以前にネットでチラっと見かけて心配になったから、たまに手に取ってノートの上でカリカリやってみる事もあった。だが何度握っても上手く書けない。 「瀬名さんはよく万年筆使ってますよね」  瀬名さんの仕事用のデスクの前で、今は俺が椅子に腰を下ろした。机の端っこの小さなペン立てには黒い万年筆が立ててある。  目の前には何も書いていない白い用紙を一枚置かれた。自分の部屋から持ってきた万年筆のキャップを外し、その上で適当に書いたあいうえお。やはり所々掠れてしまう。 「いつから使うようになりました?」 「就職祝いで伯父にもらってからだな」 「仕事ではいつも?」 「いつもって訳じゃねえが、まあ大体はそうか。ランニングコストはボールペンよりこっちの方が低い」 「へえ」  万年筆を持った俺の右手を、すぐそばに立っている瀬名さんが斜め後ろから軽く握った。  筆記用具とは言えボールペンとは違う。俺が書くと文字が掠れたり途切れたりでだいぶみっともない事になるが、瀬名さんが書くとピシッとした筆致でかっこよく見えるのを知っている。  瀬名さんの手に従って、紙の上にペン先を当てた。  文字の払いとか、一画の止めとか、瀬名さんに握られた手で丁寧に一本ずつ書いていく。 「筆圧はそんなにかけなくていい」  むしろこれを使うメリットの一つはそこだ。  付け足してそう言われた。ずっと書いていても疲れにくいそう。 「角度はこれくらい」  もうちょっと斜めになるくらいに、手の傾きを倒された。 「そう。これで慣れれば勝手に馴染んでく」  一文字書いて、隣にもう一文字。漢字二文字を俺に書かせて瀬名さんは手を放した。  白い紙の上には俺の名前が浮き出ている。遥希って。 「……ちょっと字が上手く見えるかも」 「だろ」 「しんにょうがカッコイイ」  ふふっと笑われる。普段からこの人は穏やかだけど、今日の瀬名さんは一段と和やか。  机の引き出しの一番上に瀬名さんが手をかけた。カタッと開けたその中から取り出されたのは一つの箱。  俺の目の前にそれが置かれた。白くて小さな箱だ。紺色のリボンが巻いてある。 「……なんです?」 「開けてみろ」  言われて手に取ったそれは軽い。リボンをシュルッと解いて箱を開けた。  中には、黒いボールペン。 「万年筆を使い慣れない十九歳にプレゼントだ」  俺の名前の頭文字と苗字が、筆記体のローマ字でボディに刻印されている。  瀬名さんの顔を一度振り返った。やっぱり表情はやわらかいまま。  もう一度ペンを見下ろして、箱の中で寝かされている本体を手に取った。 「……これはこれで使うのもったいないな」 「いや、使えよ」  可笑しくてダメだ。もう耐えられない。これと言っておかしいことはないのに。  楽しくなってくすくす笑い出した俺を、腰を屈めたこの人が後ろから抱きしめてきた。  十九にもなって人からこんなに優しく甘やかされるとは。チビッ子時代を振り返っても、ここまでちやほやされた事はない。 「嬉しい。ありがとう」 「おう」 「普段はこっち使います」 「そうしろ」  ボールペンを持って座ったまま瀬名さんを振り返ったら、その顔を見上げたところでまたしても唇にチュッてやられた。 「万年筆はしんにょうをカッコよくキめたいときに使ったらいい」  真顔で笑わせてくる恋人からの、貢がれ物がまた一個増えた。
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