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「……朝から思ってたんですけど、なんかいい事ありました?」
「うん?」
「今日ずっと嬉しそうな顔してる」
「ああ、そりゃ……」
ぴとっと、両手で包まれた頬。そこだけ少しひんやりとする。
「当然だろ。恋人が十九歳になった」
「……それだけ?」
「特別な日だ。だからこそ本当は旅先で祝いたかったんだけどな」
「またそこに話戻るんですか?」
ふっとおかしげに瀬名さんが笑った。それに俺もつられている。
全部やわらかくて全部楽しくて、笑っているうちに唇が重なる。朝から一日小さく触れるだけだったキスが、今日はじめて深くなった。
指先もほっぺたも冷たいけれど、口の中だけは温かい。あつい。靴も脱いでいない状態でそのまま壁際に追い込まれ、背中はトンっと行き止まる。
押さえつけるほどではないが、格好だけはそれに近い。
俺の顔の横で壁に手をついたこの人に、食むように唇を撫でられた。
ドアの鍵は、閉めたっけ。この人のことだから、ちゃんと閉めたか。
舌同士で舐め合いながらどうでもいいような事を考える。余計なことでも考えていないとすぐに持っていかれそうになる。
瀬名さんのコートを控えめに掴んだら、ちゅくっと軽く舌先を吸われた。
「ん……」
くすぐるように唇を掠めつつ、ちょっとだけ離れる。はふっと小さく呼吸が漏れた。
玄関の明かりはついている。お互いの表情がしっかり分かるから、いくらか視線は逸らし気味に。
「待って…」
言い終わるかどうか、そんな辺りでまたキスされる。右頬には瀬名さんの手のひらが触れた。
ゆっくり重なる。時間をかけて。その度に舌も重なった。
空気は冷たいのに口の中は熱い。唇だけ微かに触れさせながら、この人の低い声を聞いた。
「もう一回」
「……だめ」
「だめ?」
「うん……」
だめって言っても、言い方がゆるいせいか、瀬名さんはもう一度してくる。それをすんなり受け入れた。
キスが、甘ったるい。いつもだけど、いつも以上に。壁に追い込まれていた体を、今度はぎゅっと抱き寄せられた。
その背にそっと腕を回した。抱きしめ返して唇を押し付けて、考える。関係ない事を。持っていかれてしまわないように。
こんなに優しくされるキスに百パーセント集中したら、まずいことになると思う。みっともなくて恥ずかしいことを口走る自信しかない。
だから思考の三分の一は別のところに飛ばしておく。
外とドア一枚分隔てられているだけの玄関は寒いなとか。そういえば俺は腹が減っていたんだよなとか。瀬名さんが予約しておいてくれたケーキの種類は何かな、とか。
思っているうちにちゅっと、また一瞬だけ唇が離れた。
「せなさん……」
「ん?」
「ケーキ食いたい」
そして言った。頭に浮かんだ雑念を。
そこで見た瀬名さんの顔は、半ば混乱したようにキョトンとしている。
「…………あ?」
「ケーキ」
「……冗談だろ」
「いえ、本当に」
「このムードでもお前は俺よりケーキを選ぶのか」
「誕生日なので。ケーキあるので。……あるんですよね?」
「ある。冷蔵庫に入ってる。数分遅くなったくらいでケーキは腐らねえからあと一回だけ」
「そんなことよりどんなケーキなのか気になって仕方ないんです」
「そんなことより……?」
呆然というか唖然というか、一瞬で脱力した瀬名さん。その腕からするりと抜け出て我が家のように部屋に上がった。
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