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その人がそっと腕を伸ばすとキキはおとなしく抱き上げられた。さっきまで瀬名さんに反抗していたのが嘘のようにちょこんと収まっている。
瀬名さんの視線はチラリと俺を振り返った。俺も目だけでそれを見返す。
無言のままフルフルと首を左右に振って見せたこの人。瀬名さんにとっても現在の状況は予想外の出来事のようだ。
瀬名さんのお母さんはキキの首横を丁寧にモフモフしていた。キキもキキで懐っこく目を細めて繊細な女性の指に甘えている。飼い猫を完全にリラックスさせながら、その人はふふっとやわらかく笑った。
「今年もありがとうねぇ温泉。今回のところもすごく良かった。お部屋も綺麗だしお料理も美味しいしエビがすごかったのよエビが。こーんなに大きくて。こーんなによ。タコなんてまだ動いてたもんだから口の中にね、張り付くの。吸盤が。うふふっ。あ、お饅頭食べる? 水ようかんもあるけど」
「いや、いい」
「そう? ところで、どなた?」
ふわっとした雰囲気のまま喋るだけ喋りきると突如その目が俺に向いた。
首をかしげられ、ピシッと固まる。脈は飛んだ。ただでさえ全身カチコチだったのにいよいよ喉もピッタリくっつく。
そりゃ気づかないってことはないだろう。瀬名さんのすぐ後方にいた。思いっきり視界に入っていたはず。
にこやかなまま俺を見るその人に、慌ててペコっと頭を下げた。
「あっ、の……はじめまして。お留守中にお邪魔してしまって、その……申し訳ありません」
「いいえ大丈夫、そんなこと気にしないで。うちはいつでも大歓迎だから。恭吾のお友達?」
「あ……」
どうしよう。これはとても、かなり、非常に、まずい。どうしよう。なんだこの状況。ヤバい。ここまで色々間違っている。全部間違った。最初から変だった。
どうしよう。どうしようしか思えない。
勝手に上がり込んで寝泊まりした事実がそもそも後ろめたい要素なのにまさか、まさかだ、マジかよ、どうしよう。目の前に恋人のお母さんがいる。鉢合わせた。やばい。どうしよう。
血の気なんてもうほとんどなかった。情けないと思う余裕もないほどパニックに陥っていると、俺とその人の間にいる瀬名さんが助け舟のように口を開いた。
「同じマンションに住んでる。隣の部屋に去年越してきた」
「あら、そうなの」
「俺の食生活が酷いのを気にしてくれてな。普段から何かと世話になってる」
「ほらもう、だから言ったじゃない。またお野菜送る?」
「いらない」
「トマトとキュウリかじるくらいならいつでもできるでしょ?」
「いらない」
瀬名さんは昔ご実家からトマトとキュウリを送られていたのか。
いやいや違うだろ状況見てみろそんなこと考えてる場合じゃない。瀬名さんのお母さんの目はまたすぐにふっと、優しげに俺へと向けられた。
「恭吾の母です。息子がいつもお世話になってます。えっと……」
その言葉は途中で止まった。ハッとさせられる。またしてもピッと脈は飛んだが辛うじて一歩だけ踏み出した。
「っすみません……赤川遥希です」
「ハルキくんね。会えて嬉しい。よろしくね」
「……よろしく、お願いします」
見ず知らずのガキが上がり込んでいたのに気にする様子もなくニコニコしている。
そこには嫌味なんてものもない。あたたかなその言葉にも嘘はないのだろうと自然に思えた。
飾らない様子の、おっとりとした、とても優しそうな人。
このお母さんに紹介したいと瀬名さんは言ってくれたんだ。驚いたし身構えもしたし逃げ腰になったのも事実だけれど、隙間から覗いた純粋な嬉しさは俺の中にちゃんと残った。
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