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突発的なパニックのあとには急激な冷静さがやって来る。
緊張があり、心拍も異様に速いが、思考と感情はあり得ないくらいにはっきりとそこにあった。
今度はうちに来てください。瀬名さんに昨日そう言ったばかり。
決意したその順番が少々入れ替わっただけで、いま俺の目の前には好きな人のお母さんがいる。
ちらりと、瀬名さんの方を見た。すぐに気づいてこの人も顔を向けてくれる。
この人がそうしたいと思うことは、俺にとってもしたいことだ。
「……いいですか」
目を合わせながらそうとだけ問いかける。それだけでも瀬名さんには通じた。
昨日の田んぼで見たのと同じ、少し意外そうでびっくりした顔。それをここでもまた目にすることとなり、けれどもすぐ後にはゆっくり静かにうなずいて返された。
瀬名さんのお母さんは俺を、自分の息子の年の離れた友達だと思っただろう。その人に向き直り、逃げ出す前に口を開いた。
引っかかったように何も出てこない。絞り出す。ほとんど、無理やりに。
「……突然……こんな形で、本当に……申し訳ないのですが……」
本当にこんな形だ。いいか悪いかで言ったら最悪だ。少しでも気を抜けば声が震えそう。
ここまで怖いことってあるか。瀬名さんは大丈夫って言うけど、これで全部が終わるかもしれない。
頭ではそう思っていても、知ってもらいたい。だって、瀬名さんの家族だ。
「瀬名さん……恭吾さん、とは…………お付き合いさせていただいてます」
玄関でするにはあまりにも相応しくない発言のせいでシンとなる。目の前で見せられるのはキョトンとした顔。
仕方がない。場違いで、常識もなくて、どういう意味だって、当然に思う。俺はだって。だって、こんなだ。
瀬名さんのお母さんは徐々に目を大きくさせた。俺の顔をじっと見ている。
ごめんなさいとかすみませんとか喉まで出かかって、しかし出てこなくて、そして直後。バッと激しく開かれた玄関。
ドアに手を付き顔だけ外に出したのは瀬名さんのお母さんだった。この人はその体勢のまま、叫んだ。外に向けて思いっきり。
「ッゆうちゃーん! ゆうちゃーん、ちょっとー! はやくっ! 走って! 走るのッ! 恭吾の恋人が来てる!!」
なにっ。という誰かの声が、扉の向こうから微かに聞こえた。男の人の声だった。ものの数秒で駆け込んでくる。
パチッと目が合った。その男性と。俺はまた全身が固まった。
手ぶらで入ってきた瀬名さんのお母さんとは正反対に大荷物を両手で抱え、重そうな手元を裏切る素早さでスマートに俺の目の前に来た。
両手を塞いでいた荷物はパッと床に下ろされた。俺の手はその人にバッと取られた。
なぜ。思う間もなくそのままブンブン上下に激しく振られた両手。盛大な握手を交わしながら、温和そうなこの男性は穏やかな笑顔を俺に向けた。
「恭吾の父です。はじめまして。会えて嬉しいよ、ようこそわが家へ」
「あ……ど、どうも。はじめまして……。赤川遥希と申します……」
「ハルキくんか。実に素晴らしい。この年でもう一人息子ができるなんて」
「え……」
瀬名さんと面影が重なる。お父さんであるのはやっぱりすぐに分かった。
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