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廊下の方で微かな音がした。瀬名さんが風呂から上がったのだろう。
俺がこの部屋にすっかり居ついても瀬名さんが物静かなのは相変わらずで、生活音もドアの開閉も足音も何もかもこの人は穏やか。変な虫さえ出てこなければ忍者みたいな生活を送る。
カマドウマの呪いなんてものはないからあれ以来この室内は平和の一言。湯船で寛いできた男は全身をホカホカにさせて戻ってきた。
そのホカホカ体温は俺の後ろからむぎゅっと覆いかぶさってくる。床の上であぐらをかいていたところに背後から予告なしに来たものだから勢いでグラッと前のめりになり、それを元の姿勢に戻した。
戻しながら今度はこっちが後ろに向けて寄りかかれば、床に座り込んだこの男前は包容力満点で俺を抱きとめる。
「なに見てんだ?」
「キキとココの動画です」
「あ?」
「マユちゃんさんが送ってくれました」
瀬名さんはしばし間を置いた。スマホの中にはもふもふの二匹。
この人のお母さんが送ってくれた動画を、俺と一緒になって覗き込んでくる。
「……なんで俺に送らねえで遥希に送るんだ」
「瀬名さんが帰ってくる前に電話してたんですよ。動画撮ったから送るねって、その時に」
「お前の順応性の高さも隆仁といい勝負だな」
俺の順応性が高いわけじゃない。瀬名家の皆さんがフレンドリーなんだ。
瀬名さんのご両親とはあれから電話で二回ほど話した。俺が晴れて手に入れた免許証を最初に見せたのは瀬名さんだったが、二回目に見せた相手は瀬名さんのお母さん。
本試験はどうだったと聞かれてスマホの画面越しに免許証をお見せし、家にいたご主人にもその場で即刻報告された。そこで画面に入ってきたお父さん。
おめでとうとニコニコ言いつつすぐにフェードアウトしたものの、その手にシャンパンを持って戻ると迷いなくポンッと栓を開けたのを俺もスマホ越しに見たし聞いた。普通免許を取っただけなのになんだかめちゃくちゃ祝われた。
「あんま相手しなくていいぞ。うちの家族と会話すると大抵の奴は何かと吸い取られる」
「楽しいご両親じゃないですか」
「本気で思ってんならお前はすげえよ」
最初は確かに衝撃だったが優しくて素敵なご家族だ。
ぎこちないやり取りをしている時間はそう長く続かなかった。瀬名さんが言っていたように社交辞令とは全然異なり、当たり前のように和やかな様子で楽しそうに話しかけてくれる。
「次来た時はキャッチボールしようってお父さんが」
「絶対に付き合わなくていいからな」
「ってあなたは言うだろうけど付き合ってねって言われました」
「なんなんだあの親父」
あいつは昔から付き合いが悪いんだ。ハハハと笑いながらそうとも言っていた。
「だけど俺キャッチボールってほんとやった事ないんですよ。次会う時までに練習しないと」
「しなくていい」
「釣りにも行こうって」
「行くなよ」
「え、行きますよ。楽しいじゃないですか釣り」
「経験あるのか」
「昔じいちゃんと」
夏になると良く川に行っていた。俺は魚を引っかけられないのにじいちゃんは次々引っ掛けるから釣りの最中は師匠って呼んでた。
手取り足取り教わったから今でもたぶんできると思う。これなら瀬名さんにも勝てるのではないか。
カマドウマごときが恐怖で仕方ない軟弱な男が釣りをしたなら、うねうね動く虫エサを見ただけで思いっきり顔をしかめるに違いない。
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