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大学で一日中さらし者になっていたせいで普段の五倍くらいは疲れた。
融通の良さと距離的なメリットだけでバイト先として選んだ花屋だがこうなってみるととても有りがたい。色とりどりの花たちに囲まれブスッとした気分も多少は晴れる。
鉢植えや大き目のプランターも日中は外に出してある。それを店内に運び込んでいるとやってきたのはサラリーマン風の男性。
見慣れたスーツ姿に顔を上げ、プランターからも両手を離して姿勢をいったん元に戻した。
「いらっしゃいませ」
「どうも。こんにちは」
にっこりと挨拶してくれるこの人はここの花屋の常連さんだ。平日の会社帰りに来ているようで、俺がシフトに入っている時間帯とこの人の来店時間はしばしば重なる。
初めて来てくれた時もそうだった。夏休みが始まる前のころ、夜に差し掛かる少々手前の時間にこの人はやってきた。
最初はただ店の前にいた。一度は通り過ぎ、けれどまた戻ってきて、ガラス越しに店内をチラチラ見ていたのに気が付いた。
ちょっと花を眺めたくなってフラッと立ち寄ったというだけのお客様未満な相手である場合、こちらから入店を促す真似をするとそそくさ逃げてしまうパターンが多い。
興味があり、なおかつ購入の意欲が少なからずあるものの、花屋という場に馴染みがないため入るのを躊躇してしまっている見込みお客様である場合、どうぞと少々声をかけるだけでお買い上げに繋がることが多い。
この花屋の店長の持論だ。
この男性はどちらだろうか。ただちょっと通りがかっただけの人ならわざわざ戻ってこないような気もする。
外観からして女性好みで可愛らしい雰囲気の花屋だから男一人では入りにくいのかもしれない。
花屋バイト初心者だった俺も同じような気分を初日に味わったから、数秒程度迷った結果それとなく声をかけてみた。
鉢植えを中に入れるふりをしながら、よかったら中でご覧になってくださいと。
「奥にもいろいろありますよ」
「あ……は、はい……」
話しかけたその男性はオドオドした様子の人だった。
自信がなさそうな、ちょっとモジモジとして、強気なリーマンを見慣れている身としてはそれが少し新鮮に思えた。
どうやらこの人はお客様未満ではなく見込みお客様だったようだ。心なしか縮こまりながらも逃げていくことなく中に入ってくれた。
ぎこちない雰囲気ながらも店の中の花を一種類ずつ丁寧に見ていくその人に、さらに声をかけたのは単なる営業目的じゃない。気に入る花をひとつでも、見つけてくれたら嬉しいなって。
「プレゼントですか?」
「あ……はい。そうです……」
タカとかフクロウを気にするネズミみたいにあちこちずっとキョロキョロしている。
少なくとも花に詳しそうな様子ではない。俺も初心者で詳しくはないけど、店長とスタッフさんがお客さんに対してやっていることならここで見てきた。
ちょうどその人の視線の先にあった、透明なケースをカラカラと開いた。
手で示したのは黄色のガーベラ。ついほんの一時間くらい前に店長がお客さんにオススメしていた。
「こちらはいかがですか?」
「え……」
「ガーベラです。当店でも人気でして。花束もお作り出来ますが、一本からでも大丈夫ですよ」
「ぁ……あ、の……では……これを、すみません……一本だけ」
その人は申し訳なさそうに小声で言った。年上だけどどうにも可愛くて、思わずニコっと返していた。
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