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別に金には困っていない。もう残りの人生を暮らすには、不自由しないほどの金を私は持っていた。だが、この職業を辞めようとは思わない。客は選ぶがね。いわゆる、高級娼夫というやつだ。
上質な黒いチェスターコートの裾を風に靡かせて、私はいつものように夜の街角に立つ。
私を抱きたいという酔狂な奴も極稀れには居たが、百九十近い長身で逞しい私に擦り寄ってくる男も女も、大抵が「抱いて」と媚態を尽くしてきた。
それは、夕立が上がった午後だった。ホテルの軒先で雨宿りをして、今日はもう帰ろうかと思い始めていたが、空に美しく虹がかかり柄にもなく帰らなくて良かった、などと思い見上げていた時だった。
トン、と不意に身体に衝撃が走る。
「ん?」
見下ろすと、小柄で華奢な――男か女か判別のつかない痩せっぽちの影が、胸の中に居た。客か。傘を持っていなく、頭から爪先まで濡れネズミで、抱き着く前にもう少し考えて欲しかった、と思う。何しろ私は、客を選ぶんでね。
「……ってして」
か細く掠れた声が上がる。やはりこれでは、男か女か分からなかった。
「何だ?」
訊き返すと、縋りついた掌が、チェスターコートの前をくしゃりと握る。
「ぎゅってして。……優しく」
客と決まった訳でもない輩に優しくしてやる義理はなかったが、その声が余りにも頼りなく震えていたから、思わず私は従った。壊れ物を扱うように、注意深く腕の中に閉じ込める。そうすると、身体も小刻みに震えているのが伝わってきた。
無言で、五分ほどもそうしていただろうか。腕の中の人物はパッと顔を上げ、先ほどの頼りなさからは想像も出来ない笑顔を見せた。
「アンタ、優しいね。思った通りだ。はい、これ」
そう言った顔は、濃いアイメイクを施した巻き毛の少年だった。無造作にポケットに手を突っ込むと、二つ折りにした札を出して、私に握らせる。
「おい、待て。何もしていない……」
「ぎゅってしてくれたでしょ。だから、相場の半分!」
言いながら、身を翻して走り出す。
水溜りをふわりと跳び越して、伸びやかな肢体はあっという間にホテル街の裏路地に消えた。
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