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相場を知っているという事は、一度は娼夫を買った事があるのだろう。だが、それは私ではない。あれだけ器量が良ければ必ず覚えている筈だし、それは一般的な男娼の値段の半額だった。
「何だったんだ……」
私は札を手にしたまま、ぼんやりと呟く。仕事をする気が萎えて、その日私はそのまま帰路に着いたのだった。
* * *
それから、ちょうど一週間目の事だったと思う。休日で朝から街角に立ち、群がってくる客たちを値踏みするのに忙しかったから、よく覚えている。
ふと人の波が途切れた時、少し離れたホテルの出口から、罵声が聞こえてきた。
最初に値段を提示せずふっかける奴もいたから、そんな揉め事はしょっちゅうだった。揉める事を覚悟の上でやるのだから、基本はよほどの事がなければ干渉しない。
――ドカッ。
「ヒッ! ごめんなさっ……返す、返すから、殴らな、ウッ!」
続けざまに、肉をぶつ鈍い音が聞こえてきた。何があったか分からないが、暴力沙汰になっているのは明らかだ。私は声が聞こえる方へ駆け出した。
「殴るなら、顔以外にして、働けなくな……っ」
道路に尻餅をついている黒いシャツにジーパンの少年を、中年の男が今まさに踏みつけようとしていた。
「何が働けなくなるだ! 一人前に働いてから言え!」
私は全速力で走り、その勢いのまま男に体当りして暴行を阻止した。男が吹っ飛んで、目を白黒させる。
「な……何だお前は!」
私は身なりが良い事を利用した。
「この子の上得意だ。何があったか知らないが、もう気が済んだだろう。これ以上暴力を振るう気なら、警官に金を握らせて暴行罪で訴えるぞ」
「う……覚えてろ!」
男は、道に散らばっていた札を大急ぎで拾い集めると、捨て台詞を残して去っていった。後に残ったのは、片目が紫色に腫れ上がった少年だった。
「どうした? 大丈夫か?」
片膝を着いて顔を覗き込み、私は一瞬言葉を失った。抱擁だけを求めて消えた、あの日の少年だったからだ。濃いアイメイクは涙で崩れ、黒い筋が頬に尾を引いている。
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