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「実は、禁煙しようかと思っているんだ」
男がそう言うと、妻は驚いた顔をした。
「どうしてまた急に?」
「いや、前々から考えてはいたんだよ。煙草に使う金も馬鹿にはならないし、健康のためにもね」
「そうですか……」
妻は、しばらく考え込んだ後、やおら真剣な表情で、
「できればやめないでいただけませんか」
と言った。
嫌煙家の妻がそんなことを言うとは意外だったので、男はちょっと驚いた。
「なぜだい」
そう問うと、妻はまたしばらく考え込む。やがて、ぽつりぽつりと話し出した。
「実は……私は煙々羅という妖怪なのです」
「妖怪だって?」
なにを馬鹿な、と男は一笑に付そうとしたが、妻はいたって真剣だった。
「煙々羅という妖怪をご存知ですか」
「うーん、どっかで聞いたような気はするが」
「簡単に言えば、煙の妖怪です。私はその数少ない生き残り」
「本気で言っているのか?」
「もちろんです」
妻は大真面目にうなずき、
「現代では煙というものは基本的に〝悪〟です。火葬場からは煙がほとんど出なくなり、工場からの排気ガスも減っている。煙草に関しては述べるまでもないでしょう」
「ふーむ、たしかに煙草を吸う人間も、吸う場所も減ってきてはいるな」
「私があなたと結婚したのも、煙草を一日に十箱は吸うヘビースモーカーだったからなのです。煙がなくては、私は生きてはいけませんので」
「しかし、君自身は嫌煙家じゃないか。家では絶対に煙草を吸わせてくれないし。それはいったいどうしたわけだい」
「それは」
と、妻はちょっと頬を赤らめ、
「あまり直接的に煙を浴びるとその……太ってしまうので」
「ははあ、よく分からないが、そういうものなのか」
「ええ。それでも全く煙のない環境では、私は痩せ細り、やがては消えてしまうでしょう」
ですので、お願いです。
妻は男に向かって頭を下げた。
「どうか煙草はやめないでください」
「まあ、君がどうしてもと言うなら」
男は承諾した。
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