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いとひるぐして 序
「こっちこっち!」
高井(たかい)修二(しゅうじ)が電車から降りて改札に近づくと、由美浜(ゆみはま)真奈美(まなみ)はすでに待っていたようだった。切符の回収箱に切符を落とし、改札を通る。その際、使いなれないキャリーバッグが二度ほど改札に引っかかったが、利用客はおろか駅員すらいない田舎の駅では慌てる必要もなかった。
「マナ姉、ずっと待ってたの?」
「まさか。今来たところ」
真奈美と取り留めもない会話をしながら、駅舎を抜ける。つんと潮の香りが修二の鼻を刺激した。道路の向こう側には海が広がっている。寄せては返す波音が耳に心地よい。水平線の先まで広がる大海原はすでに、夕焼け色に染まっていた。
スカイブルーの軽自動車に二人で近づきながら、真奈美は口を開く。四台駐車可能な小さな駐車場には、この一台しかない。
「せっかくの夏休みなのにわざわざごめんね。明日からお願いね」
「良いよどうせ予定なんてないし」
キャリーバッグとともに後部座席に乗り込みながら、修二は答える。由美浜夫妻が営む喫茶店が近々改装するらしい。その手伝いにと、甥である修二が駆り出されたわけだ。
そう、と呟き真奈美も運転席に乗り込む。しばらくのエンジン音の後、車窓がゆっくりと流れる。修二はぼんやりと窓の外を眺めるが、車高の低い軽自動車では、海はすぐに堤防に隠れて見えなくなった。
「しっかし修ちゃん大きくなったね。何年ぶり?」
「マナ姉の結婚式の時……いや、一人目が産まれた時じゃないかな?」
「じゃあ、六、七年ぶりくらいか。でもあの時は街の方に泊まったからこっち来てないよね」
懐かしいでしょ、と真奈美は続ける。最後にこの町に来たのは、まだ小学生だった頃だ。大学生になった今では、何が残って、何が変わっていないのかもよく覚えていない。今となっては、知らない町のような気さえしている。ただ、一つだけ確実に覚えていることがある。
ポケットに入れた宝物を握りしめながら、修二はあの夏の事を思い出していた。
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