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抑制剤を飲んでいても、その効果は完全ではない。自分で意識しなくとも、体は自然とフェロモンを放出し、番(つがい)のいないαやβを引き寄せてしまう。
陽介を避けたいと思うのはきっとこのせいだろうと腑に落ちる。彼も俺の香りには敏感で、周期が近づくとやたらと会いたがる。薬で発情を抑え、避妊薬を飲んでさえいれば、彼の子供を妊娠することはないのだが、不安は常に付き纏っている。
「――あれ、仙名。まだいたのか?」
甘さを含んだ低い声に自分の名を呼ばれ肩越しに振り返ると、そこには上司である商品管理部部長である伊瀬(いせ)遼(りょう)河(が)が立っていた。
三つ揃いのブランド物のスーツに身を包んだ彼の体は引き締まり、週4回のジム通いの成果がありありと分かる。40代前半でありながら異例の出世で部長になった彼はα属性だ。
日本人離れした端正な顔立ちと、160センチしかない俺が見上げるほどの長身、そして何より古くから栄えた名家の出身であり、資産も十分すぎるほどある。
爽やかな香水の匂いに混じって、α特有のオスの色香を纏う彼は女子社員だけでなく属性のある者であれば誰もが憧れる存在だ。
しかし、彼には内縁の妻がいる。それに子供も……。籍は入れていないとはいえ、一緒に暮らしていれば自然とそういう関係になっていくのが普通だろう。それ故に、皆は泣く泣く諦めざるを得なかった。
俺もその1人であることは誰にも言っていない。しかも、淡くではあるが恋心を抱いていただなんて、口が裂けても言えない。
「あ……お疲れ様です。昨日出荷した商品の数量が合わないって先方から問い合わせがあって……。今、松崎さんと一緒に在庫と照らし合わせて調べているんです」
「報告は上がってきていないが……」
「すみません。何しろ大至急調べて手配してくれと、先方から……」
「そうか。まあ、俺が確認作業に気を配れなかったことも要因だな。ところで……」
遼河が不意に俺の耳元にそっと顔を寄せた。たとえ発情していなくとも、その周期が近くなれば香りも強くなる。
無意識に全身に力を込め、手にしていたコピー原稿を掌でギュッと握り占める。
一緒に残業していた松崎という女性は、商品倉庫に行ったきり戻ってきていない。
広いフロアに残されたのは俺と遼河だけだ。
「仙名……お前、良い香りがする」
スンッと鼻を鳴らして耳朶を甘噛みした彼を咄嗟に突き飛ばしていた。
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