堕ちる男

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だけど、その時、私の足は一歩も動かなかった。 言葉も出ないまま混乱すると同時に、見とれていた。 今にも夜の闇に溶けだしてしまいそうな、男の姿に。 黒い髪に、黒地の服。 頬だけが異常に白く、華奢な背格好。 存在感は、まるで無く。 通りすがりにすれ違っても目にはとまりもしない。 記憶にも残らないだろう。 こんな場所でなければ。 こんな状況でなければ。 気にかけたりすることもなかったはずの相手。 けれどその瞬間、私は目の当たりにしていた。 死にゆく人間にしか醸しだせない刹那的な神々しさを。 諦めでもなく達観でもなく。 おそらくは虚無のような。 死神のような表情で、天使のごとき眼差しで、男は地上を見つめる。 何となく、こちらを見て欲しくなる。 私に気づいて欲しくなる。 もしかしたら、もうとっくに私の存在を認めているのかも知れないけれど。 そうだ、この人が神様ならば。
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