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声が出せなくなったかのように全く何も言わず、グスグスと鼻を鳴らし、困惑を露わにする彼は、どうしたらいいのか一切分からないような表情なので、そのまま、じゃ、拭きますね、と声をかけてやり、丁寧に拭う。不快感をできるだけ与えないよう、人権を尊重しつつと無駄に意識してしまった。好意を示すのはかくも困難なものか。面倒な作業は終え、風呂を勧め、サイズの大きめな着替えまで用意して、と、単なる通行人の好意としては十分すぎる役目を果たした俺に、俺のベッドに腰掛けて申し訳なさげにそわそわする彼はやがて、落ち着いたのか、ぽつりぽつりとなにやら話し出した。
「……えを、見ると……我慢、できなくなるんだ」
「はい?」
「お前を見ると、……尿意が、」
「……はぁ」
随分長い時間をかけて聞き出したのは、つまりそういうことだった。
その後辛抱強く聞いた話では、彼は自称魔界の人間であり、俺の持つ魔力に当てられると尿意や空腹といった衝動に耐えられなくなるのだということであった。じゃあ今は大丈夫なのかというと、流石に脱水症状を起こすほどではなく、一度失敗してしまった後はしばらく大丈夫なのだと言う。やけに状態に詳しいのは、俺は知らなかったが何度か彼と俺とはすれ違っており、その度に彼は恥ずかしい思いを繰り返していたからだそうだ。ううん、とりあえず空腹らしいし、新手の物乞いなんだろうか。それにしては大層な規模の虚言だが……。
「信じていないだろうな、こんなこと」
「いえそんな。……何か食べますか」
「いらない……」
ぐう、とお腹が鳴る音はさっきから聞こえているのだけれど、そんな気分ではないらしい。ついでに物乞いでもなかったらしいと分かる。さて、会話が無くなった。どうしたものだろうか。
「とにかく、俺はその辺の人間で、魔力とかはないですよ」
話に乗るだけ乗っておく。否定をしないのは無益な争いを避けるための基本ではある。
「そうか、それならまだ気がついていないだけだろう。私としては今後、……こ、このようなことが起こらないように、お前を監視しておきたい。」
思い出すだに恥ずかしいらしく、頬を染めた、あからさまに怪しげな黒装束の彼は、同居をご希望らしい。
「このマンション、空きはないんですよね」
「それならここに住む。……拒否権があると思うな」
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